<芽吹く言の葉>2

2022.10.13            作者:門あまね

長歌  姿よし  (二千二十二年処暑の日)

 

姿よし         心映えよし

いにしへの       君に逢ひなば

ひたすらに       君を慕ひて

あしたには       君を想ひて

ゆふべには       君に焦がれて

安眠(やすい)なく   恋ひわたり病む

わが心         君がみ声に

天翔(あまがけ)り    君黙(もく)すれば

すべを無み       孤を嘆かんか

さりながら       仏はからひ

黄昏に         逢ふべきやうに

逢ふわれら       あるべきやうに

運ばれて        一万粁を

離るるも        思ひ一筋

たがふなく       心尽くして

捧げんは        まことの思ひ

君をただ        愛しいとしみ

あぢさゐや       薔薇を愛づれば

はるかにぞ       君も愛でたる               

言霊は         一万粁を

飛び来り        君の面影

立ち昇る        薔薇とあぢさゐ

その昔         天の川をば

飛び越えて       君と降りたる

この世にて       離れてあるも

ひたすらに       永久(とは)に祈りて

君慕ふ         あるべきやうに

ある二人        なすべきやうに

なす二人        神も仏も

ほぎ給ふ        この身この世は

かくありて       あぢさゐ碧く

薔薇赤く        愁ふるなかれ

君いとし        苦しむなかれ

君がため        熱き思ひは

はてもなし       愛を捧げて

尽くす道        君がゆく道

()もゆかむ     心(しん)ひとつにて

極むれば        君と仏と

もろびとと       この三つひとつ

経にあり        是三無差別

仏なる         人につかへん

仏なる         君につかへん

もろびとは       みな仏なり

尽くす道        抜苦与楽の

施無畏道        君と仏と

もろびとに       尽くすを愛と

知るうへは       君あるままに

なすままに       君のいのちを

拝し愛(め)づ     君に幸(さち)あれ

われらみな       あるべき[h1] やうに

あるやうに       生死(しやうじ)を超えて

愛を尽くせり

 

反歌 四首

君といまめぐり逢ひたる幸せは銀河惑星地球にありて

この身なく地球も消えしそのときも君をいとしむこころ変わらじ

いのちかな今ここに君と星見れば無限のかなた君と生きゆく

銀河にてかぼそきいのちわれらかな愛をつくして星となるべし

 

<以下、添削の根拠の説明です>

 

 前回の長歌の際にも申し上げたと思いますが、長歌はだいたい五七調で読んでいくため、句切れというか、意味の切れるところは七音の句にした方が良いのではないかと思われます。添削は文法・用語・かなづかいの誤りのほかはその観点から致しました。修正した箇所に下線を付してあります。

 

  まず文法・かなづかいの点を挙げます。

・頻出する「よう」は、漢字では「様」であり、旧かなづかいは「やう」です。

・「安眠(やすい)」は山上憶良の子どもを歌った歌に「安眠(やすい)しなさぬ」とあり、名詞であると考えられます。いっぽう、「寝()も寝られず」=寝るに寝られない、という表現があり、これは「寝」の字を重ねているところに意義があると思われます。

 そこで「安眠(やすい)なく」としてみました。

・「黙す」は「もだす」と読む四段活用動詞と、「もくす」と読む(漢字の音読み+「す」)と読む下二段動詞があり、短歌作者は多く「もだす」と読むはずです。そこで「もくす」と読むならルビを要すると判断しました(下二段活用なら「黙すれば」で問題ないです)

「もだす」のおつもりなら、「君の黙せば」にすればよいと思います。

・「生死」=しょうじの旧かなは「しやうじ」となります。

 

  七音句に「切れ」を置く意の箇所

・「わが心 君のひと声 天昇り」では、各句がばらばらに置かれているようですから、「君がみ声に 天翔り」としました。これで「黙す」る場合の「孤を嘆かんか」までひとつづきになり、大きな問題はないと思います。またもう1か所「君の」を「君が」としましたが、全体が文語脈ですからその方がふさわしいと考えてのことです。

・「はるかなり 君も愛づると」の箇所も、直前の「愛づるも」を受けているのかと思いますが、少し意味を取りにくいので、「薔薇を愛づれば はるかにぞ 君も愛でたる」としてみました。ちなみに「たる」は「ぞ」を受ける係り結びです。 

・「言霊は 一万粁を 飛び来る」を「飛び来り」、

「神も仏も ことほぎぬ」を「ほぎ給ふ」、

「尽くす道 君がゆく道 われもゆく」を「我()もゆかむ」

としたのは、すべて五音句で「切れない」印象にするためです。

  

  反歌3首目

・二句を「今ここに君と」としましたが、「今ここ君と」では口語的でおさまりが悪いためです。八音の字余りでも、この方が短歌としては整うはずです。

 

<もと稿>

 

長歌  姿よし  (二千二十二年処暑の日)

 

姿よし         心映えよし

いにしへの       君に逢ひなば

ひたすらに       君を慕ひて

あしたには       君を想ひて

ゆふべには       君に焦がれて

安眠(やすい)寝ず   恋ひわたり病む

わが心         君のひと声

天昇り         君黙すれば

すべを無み       孤を嘆かんか

さりながら       仏はからひ

黄昏に         逢ふべきように

逢ふわれら       あるべきように

運ばれて        一万粁を

離るるも        思ひ一筋

たがふなく       心尽くして

捧げんは        まことの思ひ

君をただ        愛しいとしみ

あぢさゐや       薔薇を愛づるも

はるかなり       君も愛づると

言霊は         一万粁を

飛び来る        君の面影

立ち昇る        薔薇とあぢさゐ

その昔         天の川をば

飛び越えて       君と降りたる

この世にて       離れてあるも

ひたすらに       永久(とは)に祈りて

君慕ふ         あるべきように

ある二人        なすべきように

なす二人        神も仏も

ことほぎぬ       この身この世は

かくありて       あぢさゐ碧く

薔薇赤く        愁ふるなかれ                        君いとし        苦しむなかれ

君のため        熱き思ひは

はてもなし       愛を捧げて

尽くす道        君がゆく道

われもゆく       心ひとつを

極むれば        君と仏と

もろびとと       この三つひとつ

経にあり        是三無差別

仏なる         人につかへん

仏なる         君につかへん

もろびとは       みな仏なり

尽くす道        抜苦与楽の

施無畏道        君と仏と

もろびとに       尽くすを愛と

知るうへは       君あるままに

なすままに       君のいのちを

拝し愛(め)づ     君に幸(さち)あれ

われらみな       あるべきように

あるように       生死(しょうじ)を超えて

愛を尽くせり

 

反歌 四首

君といまめぐり逢ひたる幸せは銀河惑星地球にありて

この身なく地球も消えしそのときも君をいとしむこころ変わらじ

いのちかな今ここ君と星見れば無限のかなた君と生きゆく

銀河にてかぼそきいのちわれらかな愛をつくして星となるべし

 


 [h1]

 

2021.5             作者:門あまね

 

・うつそみのこの世にありて逢ふ君に昔のえにしなどかなからん

 

 「君」は、かつて読ませていただいた「想い人」、すなわち作品中に登場しておられた奥様でしょうか。「昔のえにしがどうしてないのだろうか」との言葉、「うつそみのこの世」という観念から、作者の願いはおのずと読みとれるように思われます。また、以前の作品に関する鑑賞・批評の中で、文学作品、特に短歌ではあまり直接的かつ強い表現をせず、抑えた言葉の中に余韻を持たせるべきだ、というようなことを書いたことがあると思いますが、この作品などはまさに、その「あまり言わずに」読者に思いを読みとらせる、という境地へすすんでいるように思われます。

ここまで言うと、私がどのように受け取ったかを述べなければいけませんね。この歌の「君」が、以前の作品でたくさんお詠みになっていた、奥様とおぼしき女性のことであるとすれば、今の「うつそみ」に「えにし」をくみとることができないならば、来世でむつまじく過ごしたい、という作者の意がこめられているのではないかと拝察した次第です。

もし違っていたら、お読み捨て下さい(乱暴なようですが、詩歌の執筆者と読者との関係は、そういうものです)。私は読者かつ批評者として、この作品と、過去に拝読した門様の作品とを通して私が感じ取ったことを、そのまま記しております。

そして、つづけて作品を拝見していることから、このような読みもできるのだということに、歌が結んでくれる「えにし」をも、しみじみと感じました。

 

 

・世の中の辛苦かなしみ君をして三つの糸にぞ精進させる

 

 「君」が精進しているという「三つの糸」の具体はわかりませんが、そこはわからぬまま、歌としての衝迫力をゆうした作品だと感じました。私の感じ方としては、「君」がつむいでおられる具体としての「糸」が一つか二つあって、そこに「世の中を結ぶ糸」が組み合わせられて「三つの糸」なのだろうかととらえましたが(第一印象です。あるいは三本の弦なのかも知れませんね))、その具体の穿鑿よりも、「歌」としての力があることが優先されて良いと思います。精進する「君」を見守る作者の思いが、非常によく伝わって来ます。

 

 

・世の中の辛苦かなしみひとすぢに芸の道なり人となるなり

 

 二首目と初句・二句が同じですね。こうして見ると、二首目の「三つの糸」はやはり三本の弦であり、「君」が芸道に生きておられるのだろうかと感じます。

 ここでひとつ、文法上のことをお伝えしておきます。結句の「なるなり」の「なり」についてです。助動詞「なり」は、断定の助動詞と、伝聞・推定の助動詞の二種類があり、活用と接続が異なります。活用は、断定の方の連用形に「に」の形があり、伝聞・推定にはそれがないというだけで(後者に存在しない活用形もありますが)、活用する形はほぼ同じです。

 一方、上に来る活用語の何形につながるのかという「接続」の問題は、非常に重要なところで、断定の「なり」は連体形、伝聞・推定の「なり」は終止形という決まりです(ただし終止形接続の助動詞はすべて、上に来る活用語がラ変が他動詞である場合、終止形ではなく連体形に接続あるという決まりもあります。ラ変動詞「あり」のあとに伝聞・推定の「なり」が接続する場合、「ありーなり」とはならず、「ある-なり」となるということです)

 この作品の場合、「なる」というラ行四段活用動詞に「なり」が接続しているため、活用の形の上からは、区別がつかず、従って使い方の誤りはありません。また、文脈(歌意)から考えて、断定の「なり」であろうとも読みとれます。ここではあえて指摘する必要がないとも言えることですが、四段動詞以外では厳密に分類する必要があり、それによって歌意も変わってしまうため、あとあとのご参考になるようにと思い、ご説明しました。

 作品としては、三首とも、添削の要はないと思います。ただ三首目については、結句の「人となるなり」の意図するところが、わかりにくいかも知れません。私は、おもに昨年読ませていただいた、ご本になさるご歌稿の作品の印象・記憶から、「人となる」の意を推し量ることができました。

 こうした面では、連作または群作によって、作者の来し方、よって来たるところを読みとれるということに、大きな価値があることを思います。

 

 

2021.3.31          作者:門あまね

・消えゆけば遥かなるかな愛のみち自己を捨ててぞ愛は極まる

 

 作歌の意図は大変よくわかります。ただ詩歌においては、直接的な作者の思いを語る語句は、できるだけ抑えた方がよいという原則があります。抑制された表現の方が、かえって深い感動を呼ぶ、というところです。

 この原歌では、その点で「自己を捨て」と「愛は極まる」の表現が強すぎると言えましょう。さらに「遥かなるかな」の二句が、その「強すぎる感じ」を増幅しています。ただ、全体の言葉の斡旋が悪いわけではありませんから、一部の表現をやさしくして、メリハリをつけることで、がらっと変わった印象の一首にすることができそうです。

 

 遥かなり己を捨ててそのゆえにいよよ極まる愛のみちかも

 

遥かなり己を捨ててそのゆえにいよいよ深き愛のみちかも

 

添削第一案は「極まる」を生かしましたが、そのため「いよよ」という副詞を用いましたので、ここをなじみやすく、「いよいよ」にしたのが第二案です。

 

 

・愛のみち君に捧げんわが誠(まこと)うつそみの世に真(まこと)あるべし

 

この二首目については、上句・下句および歌材の整理で、まとまりのある作品にすることができるのではないかと思われます。

 

うつそみの世に貫かんわがまこと愛こそがげに真なるべし

 

この添削第一案では、三句にかな書きの「まこと」を置き、四句のルビは割愛しました。

 

うつそみの世に貫かんわが愛を 愛こそがげに真(まこと)なるべし

 

 第二案の方が、大胆に全体の再構成をしております。このように「愛=まこと」を貫こうとすることで、おそらく原歌の意を果たせるように思います。

 

 

・春来たり黒歌鳥を見るにつけ君と聞きたし陽を背に受けて

(見るにつけ、見る折は、などと決めかねています。黒歌鳥はまだ歌い出していません。)の補足説明も拝読しました。まず、文法および短歌の校正の上から指摘すると、初句の「春来たり」のところが完了(および存続)の助動詞「たり」の終止形で、初句切れとなっています。また四句の「君と聞きたし」も願望の助動詞「たし」の終止形で、四句切れの形となっています。この、二回句切れになる点を解決するのが、もっとも重要な問題と考えられます。

 

春来なば黒歌鳥の呼ぶこえを君と聞きたし陽を背に受けて

 

 添削案の初句「春来なば」の「来なば」(読みは きなば です)は、「冬来たりなば春遠からじ」の「来たりなば」と同じで、完了の助動詞「ぬ」の未然形+接続助詞「ば」を取っており、「春が訪れた(来おおせた)その時には」といった意味を表します。だからこそ、その時に「黒歌鳥(のこえ)」を「君と聞き」たいという文脈が成り立ちます。

 また、「聞きたし」ですから、その焦点は「見る」ではなく「声」が妥当でしょう。そして「鳴く声」と最初に考えましたが、「呼ぶ」とした方が、四句の「君と聞きたし」の 願望とより効果的に呼応すると考えて、上記の添削案と致しました。

 

 

 

2021.2.8            作者:門あまね

久しぶりに長歌作品を拝読しました。作歌上、気になったのは、黄色の塗りつぶしをした七句~十一句にかけて、句切れと調子の関係が少しぎくしゃくしているところです。添削案の前のところに、留意事項をまとめます。

 

   愛の道

世の中を    捨てて抱かん

この胸に    愛極まれど

われひとり   新発意なり

一人居り    暗闇の部屋      

迫り来る    漠たる悲しさ     

胸に満つ    誓ひて歩む      

道なれど    などてなにゆゑ    

悲しむや    無辺の衆生に

捧ぐ身を    惜しむ思ひは

さらになし   愛の極まり

出家道     末通りたる

愛の道     はるかな門出

新発意     なべての思ひ

ひたすらに   佛のいへに

なげいれて   佛のかたより

おこなはれ   これにしたがひ

この愛を    この世この身に

成就せん               成就こそせめ

 

   反歌二首

わが心千千に乱れて悲しきもその心また千千に消えゆく

世の中は鏡にうつる影なれどまことひと筋尽くして果てん

 

 「絶対的なきまり」ではないと思われますが、長歌は「五・七」からはじまって「五・七」を繰り返し、最後は「五・七・七」で締める詩形ですから、読者は無意識に「五七調」で読むものではないでしょうか。五音の奇数句と七音の偶数句に分けて表記している形からも、読者の意識はそうなるはずです、

 しかるに黄色で塗りつぶした七句~十一句、特に九句から十一句で修飾・被修飾と述語の関係が乱れており、かつ五音句の十一句で句切れになるため、ここが一首全体の流れをそこねてしまっています。そのため下線でその部分を、また太下線で句切れ以降の部分の流れを正すよう、添削しました。

 

 

世の中を    捨てて抱かん

この胸に    愛極まれど

われひとり   新発意なり

暗闇の     部屋に籠れば

空漠の     悲しさ迫る

誓ひてぞ    歩める道を

ひたゆけど   などてなにゆゑ    

悲しむや    無辺の衆生に

捧ぐ身を    惜しむ思ひは

さらになし   愛の極まり

出家道     末通りたる

愛の道     はるかな門出

新発意     なべての思ひ

ひたすらに   佛のいへに

なげいれて   佛のかたより

おこなはれ   これにしたがひ

この愛を    この世この身に

成就こそせめ

 

  反歌二首

わが心千千に乱れて悲しかりその心また千千に消えゆく

世の中は鏡にうつる影なれどまこと一すぢ尽くして果てん

 

 反歌一首目ですが、「悲しきも」の「も」は終助詞でもあって三句切れと取れないこともないのですが、接続助詞でもあるため、「悲しいけれども」と下句へつづいて行く歌と読まれるかも知れないところが、惜しいと思いました。添削案では、「悲しかり」としてあって、文法書などで厳密には、形容詞の「・・・かり」が終止形となるのは「多かり」だけなのですが、啄木に「かにかくに渋民村は恋しかり」の秀歌もあるため、許容される範囲と考えて良いでしょう。そしてこのようにはっきり三句切れとした方が、「また千千に消えゆく」が生きると考えての添削です。

 

 

 反歌二首目については、一か所に表記・用字の問題があるだけです。四句から結句にかけての「まことひと筋尽くして」の部分が、「まこと」「ひと」までは仮名で、「筋」「尽」と漢字が二字かさなるので、この点だけを改善したのが添削案です。

2020.12.25        作者:みずしらず

     感染も老後資金も自助努力生きづらき世に収束は無し

 

あの、前総理にも劣らぬ身内びいき、自分勝手の現総理が、「自助」などとはよくも言っ

たものです!自分の息子が非常識な官僚接待で利益誘導しているのを「別人格」などと言ってはばからない、現総理が、ですね。彼らが政権を握っている限り〈この言い方は、実は良くないと思います。現与党を増長させた民主党政権が、「政権を握った」と勘違いしたために、十年以上この国は壊れかけているのですから〉、「収束は無し」とは、残念ながらその通りでありましょう。

 ということで、歌意についてはまったく異論がありません。ただ、「歌の書き方(詠み方)」については、少し意見と添削を致します。

 前にもお伝えしたことがあるかと思いますが、短歌の「五・七・五・七・七」は、たいへんリズムが良く、そのため深い悲しみをも、余韻を含んで訴える力の強い短歌作品にできる力を持つ反面、言葉の「調子」が良すぎて、ひと言で言ってしまえば「スローガン」のようになってしまううらみもあるのです。一例が、「欲しがりません勝つまでは」(七・五)です。

 その点をふまえて批評させていただくと、原歌の上句「感染も老後資金も自助努力」は、それだけで完結してしまっていて、あとにつづいて「短歌」になる芽を摘んでしまっている面があると言えます。二案、添削案を提示します。

 

感染も老後資金も自助という 生きづらき世に収束は無し

 

 このように「という」表現にすると、「誰が言うのか」という視点がうまれるため、構成が整います。さらに三句を字余りにしてでも、「だ」を挿入した次の案で、整った歌の形の中に、批評精神を盛りこむこともできます。

 

感染も老後資金も自助だという 生きづらき世に収束は無し

 

 

     赤信号みんなで渡れば怖くない 師走の夜のジャンジャン横町

 

「ジャンジャン横町」とは、検索してみると、通天閣のお膝元、新世界の一角の「南陽

通商店街」という場所のようですね。「みんなで渡れば怖くない」ということですから、コロナ禍で注意がよびかけられていても、人がおおぜい集まっている様子を詠んでいるのでしょうか。

 あくまで詩作品の上でのことですから、その是非を論じるのでなく、「歌」について考察します。「赤信号みんなで渡れば怖くない」は、ビートたけしが漫才で言い始めて広まった、というように記憶していますが、そのままでは、①で述べた懸念と同様のものが感じられます。そこで少し「ずらして」みたのが、次の添削案です。

  赤信号みなで渡れば怖くなし 師走の夜のジャンジャン横町

 

 何でもすべて文語にすれば解決する、という考えではなく、せっかくの短歌ですから、文語を用いて「ちっょとずらして」みる。そこに諧謔を盛りこむことができ、「遊び」を持つ短歌になる、そういう意図です。原形のままの方が良い、とお考えになる場合は、そのままでもかまいません。

 

 

     ヒットする映画の裏の感情は共感なのか同調なのか

 

これは短歌のみならず文学一般、表現全般において、掘り下げたいテーマですね。深い

問いかけでありますが、同じリズムで重ねている下句には、一考の余地がありそうです。

 

ヒットする映画にひそむ決め手あり共感かはた同調なるか

 

 三句の「感情」を「決め手」としたことについては、「決め手」以外に別の言葉の可能性があるかも知れません。が、当初「感情あり」と六音の字余りにしてみましたが、良くなかったです。他の言葉に置き換えてもいいのですが、それを三音の言葉として、三句を五音の定型におさめることが必要です。また、「共感」あるいは「同調」(同調圧力という言葉がはやりのようになっていますね)が、映画をヒットさせる「決め手」になっているという文脈だと読めましたので、「決め手」でもさほどはずれた用語にはなっていないと思います。

 

 

 

 

2020.12.30            作者:門あまね

 

 

 

21  白髪を増せる吾妹子嘆けしはわれ父として至らざりしを

 

     同じような歌を、以前にも拝見したように思います。明らかに文法上改める必要  

    があるのは、「嘆けし」で、終止形「嘆く」という動詞が四段活用(嘆か・ず、嘆き・たり、嘆く。嘆く・とき、嘆け・ども、嘆け!)であるため、連用形接続である過去の助動詞「き」(その連体形で、ここでは「し」)につづくためには、「嘆き」となっている必要があります。

 

      白髪を増せる吾妹子嘆きしはわれ父として至らざりしを

 

      また上句が「嘆きしは」と主部・主格の形になっていて、結句「至らざりしを」で受けている文脈も、明らかな誤りとまでは言えませんが、すわりの悪い形だと指摘せざるをえません。この関係で整合性をとるために、以下の二案を提案します。ご参考になさって下さい。

 

白髪を増せる吾妹子嘆きしはわれ父として至らざること

 

      白髪を増せるわが子よ嘆きたりわれ父として至らざりしを

 

 

22  聞くだにも悲しかりけりあらたまのいのち祈りてけふも暮れなむ

    (生くることかくも辛きに)あらたまのいのち祈りてけふも暮れなむ

 

     結句の「なむ」という二音は、古文の大学入試で「なむ の識別」として出題される、わかりにくい二音です。その点をまず例示します。

 

     終助詞「なむ」=あつらえの「なむ」。他への願望をあらわす。未然形接続。

     完了・強意の助動詞「ぬ」の未然形+推量・意志の助動詞「む」。推量・意志を強調する。連用形接続。

     係りの助詞(係助詞)「なむ」。係り結びを取り、「強意」をあらわす。

 

    ほかにナ変動詞「死ぬ」「()(())」の未然形+推量・意志の助動詞「む」があります。ここでは①②が関係します。すなわち「暮れ」は下二段活用の動詞「暮る」ですから、未然形・連用形とも活用した形が「暮れ」であり、おそらく作者以外には、①今日も暮れてほしい、②今日も暮れるのだろう のいずれであるのか、判断がつきかねます。

 

    そこで①願望、②推量(意志)のどちらであるのかをはっきりさせるための添削案を、二案お示しします。

 

    まず①の願望、「あつらえの『なむ』」にするためのものです。この場合、四段活用の動詞を用いるのがもっとも効果的です。

 

     聞くだにも悲しかりけりあらたまのいのち祈りてけふぞ行かなむ

 

    この「あつらえの『なむ』」は「他への願望」ですから、「今日が過ぎて行ってほしい」という文脈に、してあります。次に、②の推量にするための添削ですが、「む」には推量と意志の二つの意があり、ここは「意志」の方がまとめやすそうです。原歌の意図も、そこにあるのかも知れませんね。

 

聞くだにも悲しかりけりあらたまのいのち祈りてけふを終へなむ

 

    この案では、作者自身の意志として、「あらたまのいのちに対する祈りをささげて、今日の一日を締めくくろう」という意になります。言葉選びとしては原歌の「暮れなむ」のままでもかまいませんが、文法があらわすところを、参考になさって下さい。

 

 

23  万葉の人こそあはれ慟哭が歌となりてぞけふに伝わる

 

     この作品は、「こそ」、「ぞ」の「係りの助詞(係助詞)」ふたつを、まず整理したいと思います。一種の歌の中に係り結びが二つあるのは、ほぼ必然的にそこで句切れを生むこともあり、きびしいと言わなければなりません。さらに二句の「人こそあはれ」は、口語的な省略になっていて、厳密に文語的な評価をすると、本来は「人こそ あはれなれ」であるところを崩している、ということになってしまいます。

     もちろんだからと言って、「人こそあはれ」のような表現が一切許容できないということではありません。むしろそちらの方に作者の思いがあるようにも受け取れますから、ここでは下句の方を添削することで、対応を考えたいと思います。

 

     万葉の人こそあはれ慟哭が歌と(つむ)がれけふに伝わる

 

     なお原歌の表記ですが、「あはれ」「けふ」が歴史的仮名遣いであれば、「伝わる」

    も「伝はる」でなければなりません。これは、口語脈(口語の文脈)であるか文語脈(文語の文脈)であるかどうかという問題とは異なり、一冊の本の中ではどちらかに統一した方が良いと思われます。歌集・歌書、句集・句書はそうした作られ方をするのがふつうだからです。口語脈であるか文語脈であるかということは、それとは異なり、一定の時期を越えたら「おおむねどちらかにシフトを置いている」方が望ましいですが、一首ごとにどちらかを選択しても問題のない、表現の上での書き方の選択に属することがらだと言えます。

     内容としては、短歌もしくは文学表現の宿命を、万葉人を歌材として詠んだ、魅力的な作品だと感じました。

     

 

24  幸あるも幸なきもみなもろともに奈落の淵に立つはいまなり

 

      歌意をどのようにとらえるか。下句の「奈落の淵に立つはいま」ということが、「終末」を意味するのか、あるいは他の事象を作者がそこになぞらえているのか、多少なりとも手がかりを読者に差し出すべきであろうと思われます。

      もちろんご専門の、「禅」(あるいは素人考えですが、日本史で学ぶところの末法思想)の境地をお詠みになっているのだろうかということは想像できますし、素人の一般常識の範疇ですが、末法、末世というところを詠まれているのか、ということも、考えました。

      ただ、一首の短歌作品を単独で読者の前に差し出す時に、受け取る読者がどこまでその内容を受け止めてくれるだろうか、ということを、作者も考慮する必要があります。読者が汲み取りうる言葉を上句に盛り込むかどうか、考えていただくところかと思います。

      もちろんこの上句の言葉で、始祖の言葉を読者が思い浮かべられるはずである、あるいはご本の構成上、当然その本の読者には伝わるはずだと、ということであれば、原歌の通りでよろしいと思います。

      

 

 

27  わが道の道となりしはわが愛妻(つま)のわが非を糺す直心による

 

     はじめにお断り致しますが、「美し言の葉」では、「愛妻」に「つま」というルビを付す書き方は、みなさんにすすめておりません。そのようなルビを使わずに、五・七・五・七・七の三十一音定型の中で表現を磨くのが、短歌作者の表現の志すところであると考えているためです。

     しかしながら門様の今回の添削では、立脚点をお聞きして、そこにあわせて当方

も批評・添削をするお約束ですから、今回この作品に関しては、その点には言及し

ない前提ですすめさせていただきます。

 

 以前にもお伝えしたと思いますが、「五・七・五・七・七の三十一音定型」は、

日本語のリズムにまことによくあっており、そのリズムに乗せるだけで、非常に心

地よく響き、意味をも強くします。ただその一方で、たとえば警察や役所の「標語」

のように、調子のよすぎることばのつながりになってしまうことが、こと「短歌作

品」を書く時に、注意しなければならないことでもあります。

 原歌がそのようだと言うつもりはありませんが、やはり初句から結句まで一首

全体がつながっていると、散文であるべきものがリズムよくまとまってしまう陥

穽(かんせい)におちいってしまうことがあるのです。

     

     わが道は道となりたりわが愛妻(つま)のわが非を糺す直心ありて

 

     ここは、この歌のあらわすところに一縷のゆるみもないわけですから、「道となりたり」と一度二句切れにして(「なりけり」でもかまいませんが、私は「たり」の方を推します。その方が余計な感慨=詠嘆がなく、事実を言い切る「力」を持つためです)、断絶の力を生かすべきだと考えます。そして、この二句切れの断絶が、一首の歌に「余韻」を生み出します。

 

 

 

 

 

2020.10               作者:みずしらず

     年齢と罹るリスクを天秤に明日のある無し誰も計れず

 

  歌意は一読してよくわかります。まったくこの新型コロナは、どこでいつ罹患するかわからない、いやな感染症ですよね。またいやなだけでなく、勿論おそろしいです。ようやく世界各国でワクチンの治験がすすみはじめたようですが、接種がはじまったとしても、今度はそのリスクも考えなければなりません。とにかく広い意味でリスクが軽減されるまで、かからないように「気をつける」しかないわけですから、下句の心境は、それ自体は多くの読者が共感しうる、良い七・七になっていると思います。

  ただ結句「計れず」の「ず」は、当然文語の打消の助動詞「ず」の終止形です。口語脈で「ず」を使ってはいけないということではないのですが、やはり文脈として、そこへ至るまでの言葉運びのいかんによって、文語の「ず」が唐突に感じられてしまうようでは、その点を改善する必要があると言えます。

  その言葉運び、文脈とは、上句が「年齢と罹るリスクを天秤に」と、かっちりと用言の終止形でおさめた形になっていないことと、つづく四句・結句の「明日のある無し誰も」の部分もリズムが良く、口語的な言い回しになっている点を指します。

  原歌自体、口語的、風刺的な、世情を嘆く歌ぶりですから、ここは前の段落で指摘した注意点を改め、口語的に一首をまとめればよいのではないでしょうか。こうした場合、「一字アキ」を積極に使ってもいいと思います。結びの語は「ず」を連体形の「ぬ」にしただけですが、この「ぬ」は「準口語」と言ってもいいぐらい現代語の中でいきていますから、この一首をまとめるのに適切だと考えました。無論、結びを終止形にするのは鉄則であり、その意味では基本をおさえた原歌なのですが、そこから一歩踏み出して、こわす、遊ぶということの例としても、今後も用いてほしい手法の一つであります。

 

年齢と罹るリスクを天秤に 明日のある無し誰も計れぬ

 

 

     公園の辰巳の端に鹿一蹄 喜撰法師の姿重なる

 

「一蹄」が、まずポイントです。近年はいろいろわからない言葉や表現が多い一方、検

 索索すればすぐそれらしいものに行き当たるので、批評・添削をする場合には以前にくらべて助かることもあるのですが、

さて、「一蹄」を検索してみると、「一刻一啼」というのが「いっこくひとなき」という

投稿者の人名?が見つかりました。それはさておき、「一蹄」が「イッテイ」と読むのか、「ひとなき」と読むのか、判別できない読者の方が多いのではないでしょうか。

  「啼」という字は「蹄」ではありませんから、鹿が一頭いる、というように読ませるの

も無理があります。下句に「喜撰法師」がありますから、歌を知っている読者なら「わが

庵は都の辰巳しかぞすむ世をうぢ山と日はいふなり」を思うことでしょうが、そりにしても「鹿一啼」は「鹿ひとなき」「鹿一なき」であるべきてじょう。そして「一啼き」

に固執せず、次のようにした方が、「喜撰法師」も生きるのではないでしょうか。ただ、

「一啼」について、検索の通りでなくこちらに不明がありましたら、申し訳ありません。

 

              公園の辰巳の端に鹿が蹄く 喜撰法師の姿重なる

   

公園の辰巳の端に鹿ぞ蹄く 喜撰法師の姿重なる

 

(小田原)は、「鹿が啼く」の方を推します。二案目の「ぞ」はもちろん、喜撰法師の歌を下敷きにすることになるのではありますが。

 

 

     整然と開発されゆく「うめきた」で将棋の看板瞼の母に

 

「将棋の看板」が「瞼の母」に変わったことを嘆く内容でしょうか。「うめきた」は、大阪駅、梅田の北の再開発のことを指すのでしょうね。長く親しまれた来た「将棋の看板」が「瞼の母」にかわったのでしょうか。「瞼の母」にしても、すこし時代を感じさせるイメージがありますが、親しみのあるものが変えられてしまう無念は、たしかに歌材になると言えるでしょう。

ところで、この歌の場合残念なのは、結句です。①の歌の上句もそうですが、「〇〇を××に」という書き方は、こなれた短歌の書き方とは言い難い面があり、情緒に流れるうらみがあります。①の方は、まだ「天秤にかける」の「かける」が省略されていることが明らかであり、口語脈でまとめ一字アキを用いることで、さほど気にならない形にすることができましたが、この③の歌では、やはり語調を整えたいと考えます。

 

「うめきた」は瞼の母となりにけり「詰将棋」たりし昔なつかし

 

 

ほんの一案で、現実の景に思いを持っておられる作者なら、もっと生きた歌ができるのではないでしょうか。ちょっと検索してみると、阪急梅田駅からJR大阪駅への通路で「詰将棋」の看板が目立っていた、という記事を見つけました(余談ですが、1980年代後半から90年代前半には、私もたびたび足を運びました。西宮に本部のある短歌結社にかかわっていましたので)。添削案のポイントは、なんとなくなつかしい「瞼の母」に、「うめきた」がなってしまったなあ、と、「なりにけり」の詠嘆でまず言い切ることです。そして以前の「詰将棋」をストレートに出し、ここではあえて「なつかし」という主観の形容詞で締めてみる、こういう歌の作り方もあるのです。参考にしていただき、ぜひ納得のいく改作をなさってみて下さい。

 

 

 

 

2020.12.2                  作者:門あまね

世界中がCOVID-19、すなわち新型コロナウイルスに苦しめられた2020年が、

まもなく終わろうとしています。12月分としてお預かりした御作品の添削稿を、お送り申し上げます。

 

 

21  白髪を増せる吾妹子嘆けしはわれ父として至らざりしを

 

     同じような歌を、以前にも拝見したように思います。明らかに文法上改める必要  

    があるのは、「嘆けし」で、終止形「嘆く」という動詞が四段活用(嘆か・ず、嘆き・たり、嘆く。嘆く・とき、嘆け・ども、嘆け!)であるため、連用形接続である過去の助動詞「き」(その連体形で、ここでは「し」)につづくためには、「嘆き」となっている必要があります。

 

      白髪を増せる吾妹子嘆きしはわれ父として至らざりしを

 

      また上句が「嘆きしは」と主部・主格の形になっていて、結句「至らざりしを」で受けている文脈も、明らかな誤りとまでは言えませんが、すわりの悪い形だと指摘せざるをえません。この関係で整合性をとるために、以下の二案を提案します。ご参考になさって下さい。

 

白髪を増せる吾妹子嘆きしはわれ父として至らざること

 

      白髪を増せるわが子よ嘆きたりわれ父として至らざりしを

 

 

22  聞くだにも悲しかりけりあらたまのいのち祈りてけふも暮れなむ

    (生くることかくも辛きに)あらたまのいのち祈りてけふも暮れなむ

 

     結句の「なむ」という二音は、古文の大学入試で「なむ の識別」として出題される、わかりにくい二音です。その点をまず例示します。

 

     終助詞「なむ」=あつらえの「なむ」。他への願望をあらわす。未然形接続。

     完了・強意の助動詞「ぬ」の未然形+推量・意志の助動詞「む」。推量・意志を強調する。連用形接続。

     係りの助詞(係助詞)「なむ」。係り結びを取り、「強意」をあらわす。

 

    ほかにナ変動詞「死ぬ」「()(())」の未然形+推量・意志の助動詞「む」があります。ここでは①②が関係します。すなわち「暮れ」は下二段活用の動詞「暮る」ですから、未然形・連用形とも活用した形が「暮れ」であり、おそらく作者以外には、①今日も暮れてほしい、②今日も暮れるのだろう のいずれであるのか、判断がつきかねます。

 

    そこで①願望、②推量(意志)のどちらであるのかをはっきりさせるための添削案を、二案お示しします。

 

    まず①の願望、「あつらえの『なむ』」にするためのものです。この場合、四段活用の動詞を用いるのがもっとも効果的です。

 

     聞くだにも悲しかりけりあらたまのいのち祈りてけふぞ行かなむ

 

    この「あつらえの『なむ』」は「他への願望」ですから、「今日が過ぎて行ってほしい」という文脈に、してあります。次に、②の推量にするための添削ですが、「む」には推量と意志の二つの意があり、ここは「意志」の方がまとめやすそうです。原歌の意図も、そこにあるのかも知れませんね。

 

聞くだにも悲しかりけりあらたまのいのち祈りてけふを終へなむ

 

    この案では、作者自身の意志として、「あらたまのいのちに対する祈りをささげて、今日の一日を締めくくろう」という意になります。言葉選びとしては原歌の「暮れなむ」のままでもかまいませんが、文法があらわすところを、参考になさって下さい。

 

 

23  万葉の人こそあはれ慟哭が歌となりてぞけふに伝わる

 

     この作品は、「こそ」、「ぞ」の「係りの助詞(係助詞)」ふたつを、まず整理したいと思います。一種の歌の中に係り結びが二つあるのは、ほぼ必然的にそこで句切れを生むこともあり、きびしいと言わなければなりません。さらに二句の「人こそあはれ」は、口語的な省略になっていて、厳密に文語的な評価をすると、本来は「人こそ あはれなれ」であるところを崩している、ということになってしまいます。

     もちろんだからと言って、「人こそあはれ」のような表現が一切許容できないということではありません。むしろそちらの方に作者の思いがあるようにも受け取れますから、ここでは下句の方を添削することで、対応を考えたいと思います。

 

     万葉の人こそあはれ慟哭が歌と(つむ)がれけふに伝わる

 

     なお原歌の表記ですが、「あはれ」「けふ」が歴史的仮名遣いであれば、「伝わる」

    も「伝はる」でなければなりません。これは、口語脈(口語の文脈)であるか文語脈(文語の文脈)であるかどうかという問題とは異なり、一冊の本の中ではどちらかに統一した方が良いと思われます。歌集・歌書、句集・句書はそうした作られ方をするのがふつうだからです。口語脈であるか文語脈であるかということは、それとは異なり、一定の時期を越えたら「おおむねどちらかにシフトを置いている」方が望ましいですが、一首ごとにどちらかを選択しても問題のない、表現の上での書き方の選択に属することがらだと言えます。

     内容としては、短歌もしくは文学表現の宿命を、万葉人を歌材として詠んだ、魅力的な作品だと感じました。

     

 

24  幸あるも幸なきもみなもろともに奈落の淵に立つはいまなり

 

      歌意をどのようにとらえるか。下句の「奈落の淵に立つはいま」ということが、「終末」を意味するのか、あるいは他の事象を作者がそこになぞらえているのか、多少なりとも手がかりを読者に差し出すべきであろうと思われます。

      もちろんご専門の、「禅」(あるいは素人考えですが、日本史で学ぶところの末法思想)の境地をお詠みになっているのだろうかということは想像できますし、素人の一般常識の範疇ですが、末法、末世というところを詠まれているのか、ということも、考えました。

      ただ、一首の短歌作品を単独で読者の前に差し出す時に、受け取る読者がどこまでその内容を受け止めてくれるだろうか、ということを、作者も考慮する必要があります。読者が汲み取りうる言葉を上句に盛り込むかどうか、考えていただくところかと思います。

      もちろんこの上句の言葉で、始祖の言葉を読者が思い浮かべられるはずである、あるいはご本の構成上、当然その本の読者には伝わるはずだと、ということであれば、原歌の通りでよろしいと思います。

      

 

 

27  わが道の道となりしはわが愛妻(つま)のわが非を糺す直心による

 

     はじめにお断り致しますが、「美し言の葉」では、「愛妻」に「つま」というルビを付す書き方は、みなさんにすすめておりません。そのようなルビを使わずに、五・七・五・七・七の三十一音定型の中で表現を磨くのが、短歌作者の表現の志すところであると考えているためです。

     しかしながら門様の今回の添削では、立脚点をお聞きして、そこにあわせて当方

も批評・添削をするお約束ですから、今回この作品に関しては、その点には言及し

ない前提ですすめさせていただきます。

 

 以前にもお伝えしたと思いますが、「五・七・五・七・七の三十一音定型」は、

日本語のリズムにまことによくあっており、そのリズムに乗せるだけで、非常に心

地よく響き、意味をも強くします。ただその一方で、たとえば警察や役所の「標語」

のように、調子のよすぎることばのつながりになってしまうことが、こと「短歌作

品」を書く時に、注意しなければならないことでもあります。

 原歌がそのようだと言うつもりはありませんが、やはり初句から結句まで一首

全体がつながっていると、散文であるべきものがリズムよくまとまってしまう陥

穽(かんせい)におちいってしまうことがあるのです。

     

     わが道は道となりたりわが愛妻(つま)のわが非を糺す直心ありて

 

     ここは、この歌のあらわすところに一縷のゆるみもないわけですから、「道となりたり」と一度二句切れにして(「なりけり」でもかまいませんが、私は「たり」の方を推します。その方が余計な感慨=詠嘆がなく、事実を言い切る「力」を持つためです)、断絶の力を生かすべきだと考えます。そして、この二句切れの断絶が、一首の歌に「余韻」を生み出します。

 

 

  

 

 

2020.10.27                 作者:門あまね

17 なべてみな夢まぼろしと思へどもみ仏慕ふ心変わらじ

 

    なべてみな夢まぼろしと思へどもみ仏したふ心変わらじ

 

    歌意について、あれこれ余計なことを申し上げる余地はありません。言葉運びにもまったく問題はないのですが、「字」の配置、すなわち用字の推敲で大きく印象が変わります。これは個々人の好みやセンスの問題でもあり、「これが絶対正しい」ということはないのですが、私の感覚では「慕ふ」を「したふ」とかな書きにすることで、

   さらにまとまりの良い一首になると考えます。もちろん、作者ご自身が、ここは漢字で「慕ふ」だとお考えなら、その通りでかまいません。

 

 

18    次男「トリスタン東陽」

   うつそみの世の悲しみを分かち合い昇る陽の如(ごと)世を照らすべし

 

うつそみの世の悲しみを分かち合い昇る陽のごと世を照らすべし

 

    ご次男の「トリスタン東陽」さんの歌ですね。この作品は、言葉、しらべの上で添削するべきところはありません。ただ、「如(ごと)」とルビをふる必要が感じられず、「ごと」をかな書きにするのが良いと思われます。おそらく「如」に「(ごと)」とルビをふっても、「如世」と読まれることを警戒されたのだと思いましたが、かな書き「ごと」で解決できることだと考えます。

 

 

 

 

19 父逝きてわが子のいのち危うきにわれも知るなり世の嘆きをば

 

    お父様を亡くされ、お子様も生命の危機にさらされたのですね。「世の嘆き」としても尋常ならぬところだと思います。歌の詠み方、言葉運びとして、直さなければならない「瑕(きず)」があるわけではありません。一度四句切れにして倒置法を用い、よくまとまっている歌だと考えます。

    一案として、三句切れにする案も考えました。形容詞「危うし」を、通常は助動詞への接続に用いる「カリ系列(カリ活用)」の終止形のようにして、三句切れにするという方法です。文法書などでは、「〇〇かり」の終止形は「多し/多かり」にのみ見られるとなっていますが、近代以降の短歌では、この止め方を用いることがしばしばみられます。大いにおすすめするわけではないのですが、啄木の人口に膾炙した名歌「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」もありますから、今後の手法の一つとして、ご記憶いただいてもよいかと思います。なお、「わが子」を「吾子(あこ)」とし、「も」を加えました。おすすめになるご本においては、原歌のままでよろしいと思います。

 

父逝きて吾子のいのちも危うかり世の嘆きをばわれも知るなり

 

 

20 人愛す術(すべ)知らずして生きて越しわが身の業禍三つの子糺す

 

    三つの子に糺されにけり愛すらも知らず生き越しわれが業禍を

 

    この作品も、歌意はよくわかります。ただ「作品」というものは、その作者の作品   

   をはじめて目にする読者にも、その意図するところが伝わるものである必要を持っています。その点で、原歌そのままの形では、伝わりにくいものがあるでしょう。

    もう一つ、歌作品の構成の上で、「三歳の子に誤りを糺された」ことが原歌の眼目であると思われますから、そのことを冒頭に持って来て、二句切れにしました。また、原歌の「人愛す術(すべ)知らずして」は作者の思いの深いところと受けとめましたが、「三歳の子に誤りを糺された」=「三つの子に糺されにけり」を生かすためにあえて単純化したのが、「愛すらも知らず」という、「省略」の形です。

 

 

 

 

 

 

2020.10.27                  作者:みずしらず

     年齢と罹るリスクを天秤に明日のある無し誰も計れず

 

  歌意は一読してよくわかります。まったくこの新型コロナは、どこでいつ罹患するかわからない、いやな感染症ですよね。またいやなだけでなく、勿論おそろしいです。ようやく世界各国でワクチンの治験がすすみはじめたようですが、接種がはじまったとしても、今度はそのリスクも考えなければなりません。とにかく広い意味でリスクが軽減されるまで、かからないように「気をつける」しかないわけですから、下句の心境は、それ自体は多くの読者が共感しうる、良い七・七になっていると思います。

  ただ結句「計れず」の「ず」は、当然文語の打消の助動詞「ず」の終止形です。口語脈で「ず」を使ってはいけないということではないのですが、やはり文脈として、そこへ至るまでの言葉運びのいかんによって、文語の「ず」が唐突に感じられてしまうようでは、その点を改善する必要があると言えます。

  その言葉運び、文脈とは、上句が「年齢と罹るリスクを天秤に」と、かっちりと用言の終止形でおさめた形になっていないことと、つづく四句・結句の「明日のある無し誰も」の部分もリズムが良く、口語的な言い回しになっている点を指します。

  原歌自体、口語的、風刺的な、世情を嘆く歌ぶりですから、ここは前の段落で指摘した注意点を改め、口語的に一首をまとめればよいのではないでしょうか。こうした場合、「一字アキ」を積極に使ってもいいと思います。結びの語は「ず」を連体形の「ぬ」にしただけですが、この「ぬ」は「準口語」と言ってもいいぐらい現代語の中でいきていますから、この一首をまとめるのに適切だと考えました。無論、結びを終止形にするのは鉄則であり、その意味では基本をおさえた原歌なのですが、そこから一歩踏み出して、こわす、遊ぶということの例としても、今後も用いてほしい手法の一つであります。

 

年齢と罹るリスクを天秤に 明日のある無し誰も計れぬ

 

 

     公園の辰巳の端に鹿一蹄 喜撰法師の姿重なる

 

「一蹄」が、まずポイントです。近年はいろいろわからない言葉や表現が多い一方、検

 索すればすぐそれらしいものに行き当たるので、批評・添削をする場合には以前にくらべて助かることもあるのですが。

さて、「一蹄」を検索してみると、「一刻一啼」というのが「いっこくひとなき」という

投稿者の人名?が見つかりました。それはさておき、「一蹄」が「イッテイ」と読むのか、「ひとなき」と読むのか、判別できない読者の方が多いのではないでしょうか。

  「啼」という字は「蹄」ではありませんから、鹿が一頭いる、というように読ませるの

も無理があります。下句に「喜撰法師」がありますから、歌を知っている読者なら「わが

庵は都の辰巳しかぞすむ世をうぢ山と日はいふなり」を思うことでしょうが、そりにしても「鹿一啼」は「鹿ひとなき」「鹿一なき」であるべきてしょう。そして「一啼き」

に固執せず、次のようにした方が、「喜撰法師」も生きるのではないでしょうか。ただ、

「一啼」について、検索の通りでなくこちらに不明がありましたら、申し訳ありません。

 

              公園の辰巳の端に鹿が蹄く 喜撰法師の姿重なる

   

公園の辰巳の端に鹿ぞ蹄く 喜撰法師の姿重なる

 

(小田原)は、「鹿が啼く」の方を推します。二案目の「ぞ」はもちろん、喜撰法師の歌を下敷きにすることになるのではありますが。

 

 

     整然と開発されゆく「うめきた」で将棋の看板瞼の母に

 

「将棋の看板」が「瞼の母」に変わったことを嘆く内容でしょうか。「うめきた」は、大阪駅、梅田の北の再開発のことを指すのでしょうね。長く親しまれた来た「将棋の看板」が「瞼の母」にかわったのでしょうか。「瞼の母」にしても、すこし時代を感じさせるイメージがありますが、親しみのあるものが変えられてしまう無念は、たしかに歌材になると言えるでしょう。

ところで、この歌の場合残念なのは、結句です。①の歌の上句もそうですが、「〇〇を××に」という書き方は、こなれた短歌の書き方とは言い難い面があり、情緒に流れるうらみがあります。①の方は、まだ「天秤にかける」の「かける」が省略されていることが明らかであり、口語脈でまとめ一字アキを用いることで、さほど気にならない形にすることができましたが、この③の歌では、やはり語調を整えたいと考えます。

 

「うめきた」は瞼の母となりにけり「詰将棋」たりし昔なつかし

 

 

ほんの一案で、現実の景に思いを持っておられる作者なら、もっと生きた歌ができるのではないでしょうか。ちょっと検索してみると、阪急梅田駅からJR大阪駅への通路で「詰将棋」の看板が目立っていた、という記事を見つけました(余談ですが、1980年代後半から90年代前半には、私もたびたび足を運びました。西宮に本部のある短歌結社にかかわっていましたので)。添削案のポイントは、なんとなくなつかしい「瞼の母」に、「うめきた」がなってしまったなあ、と、「なりにけり」の詠嘆でまず言い切ることです。そして以前の「詰将棋」をストレートに出し、ここではあえて「なつかし」という主観の形容詞で締めてみる、こういう歌の作り方もあるのです。参考にしていただき、ぜひ納得のいく改作をなさってみて下さい。

 

 

 

 

2020.9.1               作者:門あまね

6  佛佛と祖祖がつとめて伝へし道は打坐のほかにはなきとこそ知れ

 

   初句の「佛佛と」、二句の「祖祖」、さらに三句が「伝へし道は」と七音の字余りになっている点を、改善すべとだと思われます。

 

    連綿と祖のつとめ伝へ来し道は打坐のほかにはなきとこそ知れ

 

 

   「ふつふつと」は、通常「沸々と」と書き、水が沸騰する様子から力がたぎる、みなぎるさまを形容する形容動詞(の連用形)です。「打坐」を伝えてきた先人たちを思い「佛」を重ねられたのはよくわかりますが、やはり少し無理があるように思います(仏教でそのような表現があるのでしたら、それを短歌表現に盛り込むことに、やはり無理があります)。また「祖祖」の重ねも少し苦しいようです。「8」の歌の「祖師」を用いることも考えましたが、字余りを含めて一気に解決するため、「祖」の単独使用、一音にしました。原歌の歌意をそこなっていることはないと考えます。また字余りは、五音句の六音、七音句の八音は多くの場合問題がないのですが、二音以上多いのは、使われている言葉や前後の音韻がよほどうまく整えられていないと、歌のリズムを損ねてしまいます。添削案の二句の八音は、「つとめ」「伝へ」が三音ずつでちょっと速く運ぶので、問題ないはずです。「伝へ来し」は、四句から五句へ、「句割れ・句またがり」となっています。

 

 

7     長男太志郎直生誕生

   父にして願ふことありたまきはる直(なお)きいのちを君生きたまへ

 

   この歌は、添削の要はないと考えます。新しく生を受けたご長男へのまっすぐな思いが、率直に表現されていて、良い歌です。ご長男のお名前が「太志郎直生」さんなのでしょうか。後半部分が「なおき」さんとお読みするのであれば、ご子息のお名前を歌に詠み込んだ、記念すべき一首と言えますね。なお、印刷物、本にする時に、「ルビ」での印字が可能でしたら、その方が良いでしょう。

 

 

長男太志郎直生誕生

   父にして願ふことありたまきはる(なお)きいのちを君生きたまへ

   私ども「美し言の葉」でも苦慮していますが、ルビ(かな)がカッコ書きになるのは見苦しく、短歌の場合はリズムをも損ねます。日本国内の印刷所でないと、ルビの処理はむずかしいかも知れませんが。

 

 

8     大本山永平寺承陽殿前にて

   わが拝す祖師の御霊(みたま)は紅葉せる木の葉の先に宿りたまはむ

 

この歌も初句の「わが拝す」を改善する必要がありそうです。短歌において「われ(わ-が)」は前面に出した方がよい場合と(少ないですが)、出さない方がよい場合があります(後者の方が多いです)。また日本語は、主語を省略しやすい言語ですから、その意味でもこの一首では、「祖師(の御霊)」を主体として一貫させるのがよいでしょう。

 

   秋深し祖師の御霊(みたま)は紅葉せる木の葉の先に宿りたまはむ

 

「拝す」という語をお使いになる場合のために解説しますが、「拝す」はサ変動詞ですから、「祖師(の御霊)」にかかる場合は連体形「拝する」となる必要があります。原歌のままの形で「初句切れです」と言えないこともありませんが、多くの読者はそうは受け取らないでしょう。そのため添削案は「秋深し」と、二句以降を修飾しない完全な初句切れにしました。「拝す」る思いを詠うためには「をろがみつ」などの初句にする方法もあります。

 

 9 父母と師の恩さらに人の恩受けてわが身の今日はありけり

 

短歌の五・七・五・七・七の韻律は、日本語のリズムをぴったり包み込む韻律であり、そのため散文と異なる強い感動を盛り込むことができる一方、場合によっては標語やスローガンのような、調子のよすぎる一首になってしまうことがあります。

 

原歌がそのようだと感じたわけではありませんが、二句から三句の「さらに人の恩」とたたみかけていくあたりは、一考の余地があると思われます。

 

    今日のわが身を思ふとき父母と師とあまたなる人の恩あり

 

あまたなる恩ありて今日のわれぞある父母と師と絶えざる人の

 

添削案1は句割れ・句またがりが二か所になりますが、五・七・五・七・七の調子を

わざと崩す、つまり屈折・断絶を作ることで、歌に読みどころを持たせ、「詩」として成り立たせることができます。添削案2では、上句を係り結びを用いての三句切れとしました。

 

10 世の中に生きゆくことのかなしみは親子夫婦にそのはじめあり

 

「別れ」を「生きゆくことのかなしみ」と歌われているのでしょうか。この歌は「9」のような推敲が必要だというわけではありませんが、上句の言葉選び、言葉運びで今少し深められそうです。

 

 世を生くることの果てなきかなしみは親子夫婦にそのはじめあり

 

「世の中」、「生きゆく」をそれぞれ縮めることで、「果てなき」を用いることができました。門様の意図とは異なるかも知れませんが、省略しうる箇所を省略し、別の表現を盛り込む推敲の例として、参考になさって下さい。

 

 

                      

 

 

 

 

 

2020.8.25                作者:みずしらず

     いつもとは風向き違う夏なれど軒の風鈴舌を崩さず

 

「舌を崩さず」という結句が面白いです。家の中で、「いつもとは風向き違う夏」を感じたのでしょうか。一首目のみ石井が担当致します。「いつもとは風向き違う夏」はいろいろに解釈できますね。石井は、コロナの影響で、いつもとは違う夏になったと解釈致しました。でも、たとえば家庭内の状況、実際の風の向きなど、読者の手に委ねられれ

ば、多様な解釈が生まれましょう。

問題は、作品が作者の手から離れて、読者のもとに渡った時、「どう読まれてもいい」と、腹をくくれるか、ということです。もちろん実作しているときは、「こう読まれたい!」という、熱い気持ちがあるはずです。異なった読まれ方をされるのがお嫌でしたら、徹底的に推敲に推敲を重ね、ほかに読みようがない、という短歌を詠むことです。

 

少し話がそれましたが、結句の「軒の風鈴舌を崩さず」が秀逸な表現なので、この御作は添削はなしで、鑑賞のみに留めます。

 

 

     縁日であなたと買ったペアリング メッキ剥がれて想いは変わらず

 

「あなたと買った」の二句をどうするかがポイントですね。というのは、下句の内容を

「逆接」の文脈とした方が、やはり読者がすんなり受け入れられるだろうと思われるからです。二句を省略すると、次のような添削案が生まれます。

 

  ペアリングメッキはとうに剥がるれど買ひしあの日と想いは変わらず

 

  ただ、「あなたと買った」は、水谷ワールドとして外せないところかも知れませんね。その場合、「メッキ」を省く手もあります。

 

縁日であなたと買ったペアリング 色は褪すれど想いは変わらず

  

 縁日であなたと買ったペアリング 色は褪せても想いは変わらず

 

一首目が「褪せる」を文語「褪す」のまま「褪すれど」としたもの(サ行下二段動詞)、二首目はその部分を口語にしたものです。もちろん原歌の通り、「メッキ剥がれて想いは変わらず」という逆接を含まない文脈で「駄目です」というわけではありません。どの形がよいか、お考えになってみて下さい。

 

 

     背比べ 年々距離は縮まりていつしか抜かれき心と共に

 

 お子さんが成長し、「心」もはっと気づくとびっくりするほど大人になっていた、という内容ですね。良い歌です。この歌は特別に添削をしなくてもいいように思いますが、あえて厳密に言えば「き」は過去の助動詞ですから完了の「ぬ」に改め、「ともに」もかな書きにするのが良いでしょう。

 

背比べ 年々距離は縮まりていつしか抜かれぬ心とともに

 

もちろん、「お子さんの身長が上回った」その時は「過去」なのですが、「き」を使ってしまうと、今は一緒にいない、遠い過去の印象になります。そうすると「心とともに」が生きないので、完了の「ぬ」あたりでちょうどいいと考えます。「完了・存続」の「たり」「り」という助動詞もあるのですが、「り」は受け身の「れ(終止形は る)」のあとに使えませんし、「たり」では音数が多くなりすぎますから、「ぬ」でよかろうという判断です。

なお、「いつしか」を「いつか」と改め、四句を七音の定型とすることも可能です。この点についてもご一考下さい。

 

 

背比べ 年々距離は縮まりていつか抜かれぬ心とともに

 

 

 

 

 

2020.6.16                 作者:みずしらず

遮断機がなかなか上がらぬ夕暮れに感染者数の速報流れ

 

 踏切の遮断機がなかなか上がらぬじりじりとした時間に、コロナの感染者数の速報が、スマートフォンか、実際の放送、または電光掲示板かに流れ、不安がいよいよ募る。とてもいい歌材の配置だと思います。ただ、一首に区切りがないのと、結句が「流れ」と未然形または連用形で終わっているので、落着しない不安定さを感じます。そこで、上句をひっくり返して、三句切れを作ります。また、結句は「速報流れ」よりも、「奔る」のほうがザッと不安が奔る感じがしてよいのでは?と改めました。ご一考下さい。

 

夕暮れに遮断機なかなか上がらざる感染者数の速報奔る

 

「上がらざる」の「ざる」は連体形で、係り結び等があるわけではありませんが、「感染者数」を修飾するものではない「三句切れ」として、成立しえます。ほかに三句は「ずして」をちぢめたかたちの「ずて」を用いることもできます。

 

夕暮れを遮断機なかなか上がらずて感染者数の速報奔る

 

 原型を生かして結びを「流る」にしてもよいのですが、その場合でも「奔る」の方が歌の力を生むように思われます。いかがでしょうか。

 

遮断機がなかなか上がらぬ夕暮れに感染者数の速報奔る

 

道の端に牛カツサンドが並べられ思いも寄らず名店を知る

 

 ちょっとよく分からなかったのですが、店先に牛カツサンドが並べられ、それを売っている店が、初めてその名をよく聞く(?)名店だと知ったのか。または露店で売られている牛カツサンドが、思いがけず有名な店のものだったのか。あるいは買って帰って食べたら、ことのほか美味しく、名店だと思ったのか。その場合だとタイムラグが生じますね。少し手を加える必要があります。

 まずは「思いも寄らず」かと思います。それで、一案を考えたのですが、これではなんだか散文のようですね。また、「道の端」は「道ばた」にした方が分かりやすいのではないでしょうか。また、下句も一考の余地がありそうです。「思いもかけぬ名店に会う」としたらいかがでしょうか。「会う」としたことで、詩が生まれます。

 

道の端に牛カツサンドが並べらる思いがけない名店を知る

 

道ばたに牛カツサンド並べらる思いもかけぬ名店に会う

 

 

天高し伸びゆく豆は果てしなく少年ジャックの瞳は輝く

 

 「ジャックと豆の木」ですね。「天高し」がお題であることは承知致しました。しかしながら初句に「天高し」を持って来てしまうと、そこでプツリと切れてしまう感があります。そこで、一首の歌としての言葉選びの見地から、あえてお題を崩して考えます。

 まず「天高く」として、次にバトンを繋げます。そして、「果てしなし」と、上句で切り、屈折を作ります。下句はとてもいいと思います。ただ結句が八音になっているのは惜しいですね。「瞳」と「輝く」、両方の漢字を使いたいところですが、あえて八音の音韻の問題を考え、「瞳かがやく」か、「ひとみ輝く」かにします。

 

天高く伸びゆく豆は果てしなし少年ジャックの瞳かがやく

 

天高く伸びゆく豆は果てしなし少年ジャックのひとみ輝く

 

 

   

 

 

 

    

2020.7.30                 作者:門あまね

              

1 紺碧の空にそびゆる白亜の塔に落つる粉雪はいのちとぞ覚ゆ

   

いのちとて舞ひ来し粉雪しろじろとそびゆる塔ゆ(きら)めきて落つ

 

たいへん魅力的な歌ですが、歌材が多いのを整理したいと考えました。短歌は省略の文学です。残念ではありますが、「紺碧の空」を割愛することで、天から降って来た雪が「白亜の塔」に一度積もったあと、さらにひらひらと光をふりまきながら落ちて来る、その描写を三十一音にまとめてみました。

「ゆ」は上代の格助詞で、「①位置的、②時間的な出発点(・・・から)または経由地(・・・を通って)」をあらわします。「舞ひ来し」が天空から塔まで舞い落ちて来た時点、「塔ゆ」~「落つ」が塔から地面に落ちる時、ということで、添え書きの意を何とか盛り込むことができたと思います。なお結句の「燦めきて」は、はじめかな書きにしてみましたが、「ゆ」とのつながりで読みにくいと思いましたので、漢字にしました。「煌めく」の字でないのは私の好みですから、ご随意に判断していただければ良いと思います。

     

2 ひと日ごと不思議の思ひ重なりてなぜ君われと生きたまふや

 

ひと日ごと不思議の思ひ重なれり君などかわが道を生きたまふ

 

   この歌は三句切れにすることで、歌のリズムと「思ひ」の双方に、一度「間」を作ります。「重なれり」の「り」は完了・存続の助動詞で、「~ている」の意をあらわしますが、この歌の場合、「重なってゆく」の意を持たせることができるでしょう。「など(か)」は「なぜ」の意をあらわします。結句が八音になりますが、許容範囲です。原歌の結句の「や」の疑問の意を、「か」→「生きたまふ」(「たまふ」=ハ行四段動詞の連体形係り結び)が同じように表現します。

   また「字余り」と「字足らず」(原歌は結句が六音で字足らずです)についてですが、一般に一音、場合によって二音程度までの字余りは問題なく収まることが多い一方、字足らずはよほどの必然性がある場合(そうでなければその歌の表現が成り立たない場合)以外、イコール「舌足らず」のようになって、うまく行かないものです。字足らずについては、お気にとめていただくと良いかと思います。

 

 

3    盡十方世界只管打坐     

   正伝の打坐こそわが師わがいのち趺坐せるわが身尊かりける

    

    正伝の打坐こそわが師わがいのち趺坐せるわが身尊かりけり

 

  この歌は、ほとんど添削の要がないと言っていいと思われます。ただ、結句が「ける」の連体形になっていますが、厳密に言えばその必然性がありません。添削案のように「けり」の終止形で良いのです。ただ、作者の「表現」として、何が何でも文法書の決まり通りでなくても良いのが「文学」ですから、「ける」でいけないということではありません。しかし「決まり」としては、結びが連体形になるのは「係り結び」で、「ぞ」「なむ」「や」「か」を受ける場合です。それでも係り結びにこだわらず「ける」としても良いのですが、細かい指摘を受けないのは終止形の「けり」の方だという、その違いを押さえていただいた上で、「ける」と「けり」、どちらが良いのか、ご検討下さい。

 

4    禅道場オーバーミューレの緑したたる朝景色を見て

   たまきはるいのちならずや朝日影こずゑの小鳥川の瀬の音

 

    この歌も、ちょっと歌材が多いですね。もちろん、後半または前半で名詞を並列す

   る手法はあるのですが。詞書の言葉を用いて、こんなふうにするのも一つの手だと思います。添削案では「音」に絞り込みますが、「景色」はそれでも、視覚的に浮かんで来るものではないでしょうか。 

 

     たまきはるいのちのごとき朝景色川の瀬おとに小鳥啼き添ふ

 

 

5 たらちをの父が形見と目抜きのダルマ入れて悲しもその人なくに

 

    言葉と文脈の整理を要しますが、歌意は十全に詠みこまれています。「目抜きのダルマ」という固有名詞(?)を使うかどうかがポイントになりますが、まずはそれを使わない方で一案、お示しします。「ダルマ」と簡潔に表現することで、表現=読者の「読み」のふくらみが生まれそうです。

 

    たらちをの父が形見のダルマかも目を入れ悲しその人なくに

 

    もう一案、「目抜きのダルマ」を生かすために、動詞「()ぶ」を用います。故人であれば、御父上に敬語表現を用いても問題ないでしょう。

()びし目抜きのダルマ悲しかりいま目を入るれどその人はなし

 

    いずれの場合も三句切れにする必要がありました。また二案の方では、結句も終止形で言い切る形にしています。

 

 

   

2020.5.9                   作者:門あまね

お寄せいただきました長歌作品「愛の詩(うた)」および反歌二首ですが、一読して清澄な、「愛」の思いを受け止めました。門様がこの作品をどのようにお使いになるのか、その方向性によっては、末尾に批評・添削を示す文法およびわずかな修正以外、このまま形に残るものになさっても良いのではないかと思いました。全体的な内容、言葉選び、言葉運びという点については、一定以上の「詩作品」としての力と完成度を有していると考えます。

 

 

愛の詩(うた)     長歌一首 反歌二首

 

 長歌

さすたけの   君と暮らしつ

あしたには   君を思ひて

ゆふべには   君を慕ひて

しあはせは   かくのごときと

やさしさは   いよいよ増しつ

三十歳(みととせ)の   月日はや過ぎ

風吹きて    竹はさざめき

雨降りて    心なごみぬ

別れの日    ともに思はず

しかあるに   その日は来たり

愛し合ふ    心は萎えり

悲しみの    いよよ激しく

愛ほしさ    いよよ哀しく

なにゆゑに   君は求めず

なにゆゑに   君は去(ゆ)かむと

問はるるに   涙をもてす

すべもなく   日々に悩みて

ひたむきに   愛を尽くして

ひたすらに   ただ受け容れぬ

放つのが    愛の極みと

去かむ君    放ち果てぬと

涙もて     わが愛尽くす

涙もて     この愛に謝す

愛しぬく    二人はひとつ

このひとつ   君ばかりなり

われすでに   君にてあれば

わが道は    君の道なり

君すでに    われとひとつぞ

愛の道     永久(とは)に開かれ

君すでに    いのちのすべて

生くるもの   なべて苦しむ

生くるもの   なべて悲しむ

苦しむは    君ならざるや

悲しむは    君ならざるや

わが心     愛を尽くして

生くるもの   なべて愛さむ

苦しむを    なべて癒して

悲しむを    なべて和(なご)めて

わが愛の    誠を尽くし

永久に君    愛しぬかんと

生くるもの   永久に愛さん

いざわがいのち

 

 反歌二首

薄霧の月の光のはかなさに消えゆく君に愛を誓へり

わが心悲しみを越え君に会ひ愛の誠を貫き得たり

 

 

 しかし、それだけでは私ども「美し言の葉」に御作品をお寄せいただいたご意志にお応えできませんので、「短歌的評釈」を基本とした批評、添削になるかも知れませんが、能う限りの考察をさせていただきます。

 

 さて、短歌は「省略の文学」であり、限られた音数の中で何ごとかを表現するのですが、十七音の俳句と比べると、それでも三十一音の長さにはある種のゆとりがあり、語れる容量がある分だけ、語りすぎもしくは冗長になることを戒める必要があります。そのために、三十一音の中にあえて断絶や屈折をつくるという手法が存在します。長歌については、おそらくあまり「実作上の留意点」というものが流布していないと思われますが、やはりこの「断絶」や「屈折」のポイントを設けることが、一つのアクセントになるだろうと考えます。

 

 また、柿本人麻呂の長歌を読んでも、たたみかけるような、同じ調子の対句的な表現を盛りこんでいる部分がある一方、先述した「断絶」、「屈折」を受け止める部分のあることが感じられます。

 

 門様の長歌作品では、対句的なたたみかける表現を、意識して駆使していることを感じましたが、率直な読後感として言わせていただくと、その重ねてゆく感覚、箇所が多いため、

さらに前で述べた「短歌の語りすぎ」に近い印象を受けるところが、少し惜しまれます。具体的には、「涙もて わが愛尽くす」以降、特に「生くるもの なべて苦しむ/生くるもの   なべて悲しむ/苦しむは 君ならざるや/悲しむは 君ならざるや」のあたりでしょうか。もちろん、「短歌」でも、あるいは他の文学形式でも、作者がもっとも思いをこめる(もっとも「言いたい」)部分にこそ、思いがこもるのであり、私なども大いに経験があるのですが、その「作者のクライマックス」をぐっと抑えて、「読者のクライマックス」(これは政策当時の作者には見えない、読めないものでもあり、むずかしいのですが)の表現を書き切ることに、詩歌の実作者の志めざす着地点があるということを、申し上げておきたいと思います。

 

 さらに「具体的」に、断絶、屈折を設定する添削案として、四十三句から四十六句(ご提出稿の二十二行目~二十三行目)の四句を、次のように差し替えてみてはいかがかということを、提案致します。

 

涙もて 鷹のい(かけ)

涙もて 波にい隠る

 

 ここで用いた「い」は、万葉時代に使われた強意の接頭語であり、直接的な感懐の言葉を、「鷹」に仮託するものです。もちろん鷹でなくともかまいませんし、まったく別の表現でもけっこうです。ただここが、全体の中ほどでもありますし、断絶や屈折の部分を置いて作品全体を光らせるために適切な箇所であると考えました。

 

 また、個別の文法上の誤り、改善点をまとめます。まず完了・存続の「り」についてですが、二十二句(十一行目)の「萎えり」は、ヤ行上二段活用動詞「萎ゆ」(口語=上一段動詞「萎える」)ですから、四段活用の已然形かサ変の未然形にのみ接続する完了・存続の助動詞「り」を用いることができません。同じ完了・存続の助動詞「たり」はすべての活用に接続しますから、ここは「心は」の「は」を省いて「心萎えたり」とすればよいでしょう。

 

 なお、ご送稿後、最初に質問をいただいた際、同様の「り」の問題が2、3か所あったようだ、と書き送ったこの部分の問題につきましては、もう一か所「り」を用いているのが「誓へり」であり、これはハ行四段動詞「誓ふ」の已然形+「り」ですから、問題ありませんでした。失礼しました。

 

 四十二句(二十一行目)の「放ち果てぬ」との「ぬ」についても、疑問があります。ここは全体の歌意からすると、「君」を「解き放とう」という「意思」の意なのではないでしょうか。そうだとするなら、ここで用いるべき助動詞は「む」(推量・意思の助動詞「む」の終止形)となります。「ぬ」は「放ち終えた」という「完了」を表します。

 

 さらに七十三句~七十六句(三十七行目~三十八行目)の「苦しむを なべて癒して」「悲しむを なべて和めて」は、それぞれ「苦しみを」「悲しみを」である方が、現代の読者に受け入れやすいだろうと感じました。

 

 ここまで申し上げたことを反映させた「添削案」を、以下に記します。

 

 

愛の詩(うた) 

   

さすたけの   君と暮らしつ

あしたには   君を思ひて

ゆふべには   君を慕ひて

しあはせは   かくのごときと

やさしさは   いよいよ増しつ

三十歳(みととせ)の   月日はや過ぎ

風吹きて    竹はさざめき

雨降りて    心なごみぬ

別れの日    ともに思はず

しかあるに   その日は来たり

愛し合ふ    心萎えたり

悲しみの    いよよ激しく

愛ほしさ    いよよ哀しく

なにゆゑに   君は求めず

なにゆゑに   君は去(ゆ)かむと

問はるるに   涙をもてす

すべもなく   日々に悩みて

ひたむきに   愛を尽くして

ひたすらに   ただ受け容れぬ

放つのが    愛の極みと

去かむ君    放ち果てむと

涙もて     鷹のい(かけ)

涙もて     波にい隠る

愛しぬく    二人はひとつ

このひとつ   君ばかりなり

われすでに   君にてあれば

わが道は    君の道なり

君すでに    われとひとつぞ

愛の道     永久(とは)に開かれ

君すでに    いのちのすべて

生くるもの   なべて苦しむ

生くるもの   なべて悲しむ

苦しむは    君ならざるや

悲しむは    君ならざるや

わが心     愛を尽くして

生くるもの   なべて愛さむ

苦しみを    なべて癒して

悲しみを    なべて(なご)めて

わが愛の    誠を尽くし

永久に君    愛しぬかんと

生くるもの   永久に愛さん

いざわがいのち

 

 反歌二首

薄霧の月の光のはかなさに消えゆく君に愛を誓へり

わが心悲しみを越え君に会ひ愛の誠を貫き得たり

 

 

 何しろ専門的に「長歌の批評、添削」を手がけているわけではありませんので、適切なものであったかどうかわかりませんが、「美し言の葉」として、鑑賞、批評、添削をさせていただきました。ここまで御作品を拝読し、お付き合いして感じたことですが、先に申し上げた批評や添削は別にして、このような形で、言わずにおれぬ、ほとばしる思いをあらわすこうした読みぶりの長歌というものが、広い意味での「現代詩」のなかにあっても良いのではないかという可能性を、興味深く受け止めました。ただそれでも、あまりにたたみかけるのはどうかという注意点は、五・七の音韻をもつ長歌において、短歌同様に存在するのではないかということを、このあと長歌作品をお書きになる際に、お気にとめていただければ幸甚に存じます。

 

 

 

2020.5.1                          作者:水木果容

十六度これが二月の気温なりチュウリップの芽チラホラあらま

 

二月に気温が十六度!本当に異常気象でしたね。短歌では基本、漢数字で表現した方がいいとの、以前の添削をよく覚えていてくださって、嬉しく思います。

さて、結句の「あらま」についてです。三首目の「昔のまんま」にも言えることですが、かなり砕けた口語文脈ですね。このユーモア性が、作者の短歌の個性なのだとは思います。しかし、短歌は短詩型文学です。文学の一種なのです。あまり砕けた表現は、「美し言の葉」としては、言及せざるを得ません。

具体的には、一首目は「あらま」を「あなや」に改めてはいかがでしょうか?「あなや」はと言う古語は、「あれえっ」という感動を表します。

 

十六度これが二月の気温なりチュウリップの芽チラホラあなや

 

ご一考下さい。

 

 

*学会へ息子向かえりマルタまで コロナウィルス舞い散る中を

 

 ご子息様が、学会でマルタへ向かわれるのですね。しかもコロナ禍の渦中に。マルタはイタリアに近いので、さぞご心配だったことでしょう。

 さて、添削に入ります。「向かえり」は、存続の助動詞「り」を用いておられるので、間違いではありません。しかし、上句の言葉の配分が、ややギクシャクしているように感じます。同じ倒置法でも、

 「マルタへと息子は向かう学会へ」としますと、「マルタ」が初句に来て、場所のイメージが結びやすいのではないでしょうか。

 もう一点気になるのは、コロナウイルスが「舞い散る」となさったところです。確かに飛沫などで、実際にウイルスは舞い散っているのかもしれません。しかし、「舞い散る」という言葉からは、花びらなど、やや大きいものが舞い散って来る感覚を受けます。そこで、ウイルスが待ち構えている感じなら「潜める」、猛威を奮って荒れ狂っているさまを表したいなら「荒べる(すさべる)」を用いてはいかがでしょうか?

 

 マルタへと息子は向かう学会に コロナウイルス潜める中を

 

 マルタへと息子は向かう学会に コロナウイルス荒べる中を

 

 

実りたる庭の苺を頬張れば拡がる味は昔のまんま

 

 とても素直な詠みぶりで好感が持てます。お小さい頃から、お庭の苺を頬張っていらしたのでしょうね。ただ、第一首目で言及した通り、「まんま」という口語表現が気になります。「まんま」ではなく、「ままに」としたらいかがでしょうか?それ以外はとても整っています。

 

実りたる庭の苺を頬張れば拡がる味は昔のままに

 

 

2020.4.10                     作者:みずしらず

     日常がコロナと呼ばれし怪物に縛られて往き奪われて逝く

 

 コロナで世界中が翻弄され、対応に追われる、恐ろしい状況が続いています。下句の対句のような表現は面白いと思いますが、細かいところが幾つか気になります。

 まず「日常が」の「が」ですが、文脈を追うと、「日常が」「往き」、「逝く」となり、少々こなれない感覚を覚えます。そこで、ここは「日常を」にしましょう。また、「呼ばれし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形ですから、終わったことになってしまいますので改めて、「呼ばるる」と、受け身の「る」の連体形を用い、時制としては現在にします。

 さて、下句ですが、「往き」「逝く」と、同じ音の漢字をかさねることで、意匠の妙が出ています。ただ、ちょっと調子が良すぎる感はありますが、やはりこれは作者の「発見の歌」として、良しとしたいと思います。

 しかしもう一点、「往く」の字はどうでしょうか?広辞苑第四版には、「いく」でこの字は載っていません。(もちろん用例は幾つも目にしたことがあります)しかし、「往来」「往き交う」などに用いることが多い漢字ですので、少し無理があるような気がします。

 これらのことを考え合わせてお示しするのが次の添削案です。ご一考下さい。

 

日常をコロナと呼ばるる怪物に縛られて生き奪われて逝く

 

 

     色の無き世界に生まれしウイルスが五つのリングを塗り潰しゆき

 

とても興味深い歌材だと思います。実際にウイルスが色のない世界に生まれたかどうか

は詮索しませんが、五つのリング(五輪ですね)のカラフルな色を憎むように、オリンピックを中止させてしまった、それを「塗り潰す」と表現されたこと、非凡なものを感じます。たった一点、残念なのは、結句が「塗り潰しゆき」とどこかへ行ってしまうようで、落着しないことです。ここは「塗りつぶしゆく」と終止形にすべきだと思います。それ以外は大変うならせられる佳歌と言えます。

 

色の無き世界に生まれしウイルスが五つのリングを塗り潰しゆく

 

 

     憂鬱の中の正体知りたくて憂鬱の字を繰り返し書く

 

この御作も、前後のつながりから、コロナ対策として緊急事態宣言がでて、外出自粛と

なり、家にこもり、コロナのニュースばかりで嫌でも憂鬱となる。そんな意味合いかと解釈致しました。

 ただ、「憂鬱の中の正体」という表現は読んでいてひっかかる、というか、まだ、さらに突きつめる余地があるように思います。「知りたくて」という言葉選びも、少し舌足らずな感を受けます。そこで次のように文語のちからを借りて添削致しました。

下句はとてもいいと思います。ちなみに小田原も、三十前後の歌作に没頭していた頃、同じことを考えて、深夜、憂鬱の字を何度も書いたそうです。

 

憂鬱のうちにひそむは何ならん憂鬱の字を繰り返し書く

 

 

 

 

2020.2.3                          作者:佐東亜阿介

・この町のイヴ・ジネストと呼ばれたし還暦過ぎし新人なれど

 

 短歌作品を一読した限りでは、「イヴ・ジネスト」がいかなる人物なのかがわかりません。しかしそのことを抜きにして、この歌は添削の必要がない、よくできた作品だと言えます。ということは、「イヴ・ジネスト」という固有名詞を一首の中に盛り込むにあたって、これ以外の用い方は考えられないほどしっかりすわっているということでしょう。下句の「還暦過ぎし新人なれど」も、還暦を過ぎた作者が何ごとかに新しく挑んでいることをすっきりと述べており、「イヴ・ジネスト」がその道の先駆者なり大家なりだということを、無理なく読みとらせることができていると言えます。

 

 ここまで作品だけを読み、鑑賞・批評を致しました。ご送稿時にいただいたおたよりの内容をふまえ、「イヴ・ジネスト」を検索すると、佐東様が転職なさってめざしておられるものが明確に読みとれました。聞きなれない固有名詞を読者が調べるという点ですが、実は「美し言の葉」でそのような必要が生じることがままあります。ほとんどのものが検索で調べられることから考えられると、紙の上の情報(図書館の本など)で調べるよりほかなかった時代とは、おのずから「情報、固有名詞」の位置づけが変わっていることを思わないわけにいきませんね。その意味では、こうした書き方もあるのでは?というのは一面たしかにその通りです。

 

 ただし、「どこまで理解してもらうか」「読者に必要な情報をどこまで、どうやって(連作・群作や詞書の使用など)手渡すか」ということが、あくまで作者の判断の幅のうちに存在するのだということは、押さえておいていただきたいと思います。この作品の「イヴ・ジネスト」に関しては、私は賛成です(もう一つ付言すると、「イヴ・ジネスト」という人名そのものが、イエス・キリストを思わせるような、ある雰囲気をまとっていることも大きなプラス要因になっていると思います)。

 

 

女子笑ふズボンの上に襁褓穿き介護の実技受けつつ笑ふ

 

 「介護の実技」を受けて笑っているのは、「女子」ですね。近頃の「女子」という言葉は指し示す範囲が広くなりすぎて、意図するところが読みとりにくくなっていますので、その点に注意する必要があると考えます。ストレートに言わせていただけば、その指す範囲は奥様、お嬢様、家族でない介護の現場の女性、それも限りなく広い対象となりますから、読者が情景を絞り込めない点が作品の弱さとなります。

 また、「ズボンの上に襁褓穿き」までが上句ですから、ズボンの上に襁褓を穿いているのが作者なのかという感覚も生まれます。結句まで読むと、やはり「笑ふ」のも「襁褓」を穿いているのも「女子」なのだろうとわかりますが。

 

 さて、ここでご送稿時にいただいたおたよりをあわせて検討しますと、襁褓を穿いて笑うのはやはり若い女性のようですね。一首目と異なり、ここでは現代、語義が多様化、拡大していることから、より繊細な言葉運びが必要だと言えましょう。

 

  実技ゆゑズボンの上に襁褓穿き若きをみながはしなく笑ふ

 

 「はしなく」は「端無く」で「思いがけず」の意です。「はしたない」とは異なります。「若きをみな」とすることで、先にあげた「女子」の広義すぎる意味合いを介護現場にいる成人女性に絞ることができます。「介護」までは入れられませんが、ズボンの上に襁褓を穿くこと、また前後の作品から類推することはたやすいでしょう。

 

 

・模擬の痰含み口腔ケア学ぶ気恥ずかしさも合わせて学ぶ

 

 この作品は、破綻なくまとまっているのですが、下句に一考の余地があると言えます。

下句の言葉運びが素直すぎ、短歌の調子の良さで一首が流れて終わってしまう感があるの

です。わずかに修正することで、この点は大きく解決できるのではないでしょうか。

 

模擬の痰含み口腔ケア学び合わせて学ぶ気恥ずかしさも