小田原漂情 短歌50首選

  

◇歌集『奇魂・碧魂』

  

峠(たを)とほく崩るるごとき愛恋のこころさわぎに急かるる日暮れ

  

冬の夜とわが名を呼べば雪まくら持ち来てねむるをさな子の影


平原を風わたりゆくけはひして弓ひきしぼる膂力あふるる

 

本望と咲(わら)ひて月が笑みかくる真冬ひそかな夜の伽といふ

 

ダミアとピアフをくり返し聴く日曜日 昨日(きぞ)の雪屋根に光る街にて

 

蜂ひとつ叩きころして一瞬ののちをつめたき汗ほとばしる

 

クーグバーン渓谷にはなれ住む汝へ空ゆ送れる無秩序の愛

 

こころさむく北へと向かふきさらぎの朽木(くつき)の虚を風くぐるおと

 

受話器を握りしめたるまま立ちつくす夕陽が燃えつきようとしてゐる

 

意思表示されつつあるをこの夏のわが分去れの風のさゆらぎ

 

ジャスミン茶飲まぬか君よ何もかも知りつくしてゐる小雨の午後を

 

むかし俺は矢吹丈ではなかつたがそれなりに吠ゆるけものであつた

 

 ひとしほの鱈を食みきて真夜ふくむ乳(ち)の香ほのぼの脾にしみる恋

 

木枯らしがゼームス坂を吹きぬけて智恵子のゐない冬がやつて来る

 

生きざまを見せて去りゆく男(を)ごころの梅雨ぐもの中のひと刷毛の青

 

朝の紅茶はクイーンメリーと決めてゐるをとこありけり木造下宿に

 

ふらんすは、あまりに遠し。言(こと)捨てて鎖すひとりの天(あめ)のまほろば

 

藁草履でアスファルトを踏む真夏日の農夫のごときわれの蹠骨

 

疲れてはゐないか星よ美しくよそほふことはもうないのだぞ

 

変革に言葉は要らぬくろがねの塊(くわい)ほとばしる弩級戦艦(ドレッドノート)

 

われゆゑに我、とゑがきてしづかなり 漕ぎたもとほる独木舟の

  

あかときを告げて去りたる一声の きみをおもへば空凪ぎわたる

 

生きてあるいのちの量をおもふたび身はひとくれの言葉の器

 

かつてわれのすべてが在りし駅の跡にしろじろとアメリカ花みづき咲く

 

闇ふかき夜汽車となれる帰り路を真一文字に天指すこころ

 

告げやらむ愛と別れのコンチェルト霧石峠に風かをるころ

 

鹿のこゑを聞きのがしたる悔いひとつはつかにわれを扼する日暮れ

 

くるしみて歎きゐむ水の民たちよ 羽島のとろ流し、赤須賀のしじみ

 

ゆゑありて愛するものも時にあり論じつめたればこそ長良川

 

志願して軍へ行きたる頃のこと語りて父の ひくくとほる声

 

うらにしの吹きつのるとほき岬指しことしの冬は旅に出でなむ

 

山ひとつ越えたれば島がうつすらと見えたりあれがキンの住む佐渡

 

黙殺の花を育むわが土地は地上げののちの廃ビルの影

 

指(および)五本つくえのうへに投げ出して夜を寡黙な歌よみとなる

 

水張り田に森のみどりの照り映ゆる五月のやまのみちを急げり

 

 

 ◇歌集『A・B・C・D』

  

黒き雨止まざる土地を思はせて極東の島ぐににも春の雨

 

堤防をちひさき蟹が這ひまはり這ひまはりつつ雨にぬれてゐる

 

高杉の晩年、中也へあと二年 妻なく子なく腕ぐみをする

 

祖のひとりかつて斃れし長篠の川のほとりの夕宵ざくら

 

補陀落へ魂をみちびくあをうみの熊野とおもへ 陽はかぎりなく

 

 

◇歌集『予後』

 

野に帰りつちにしみゆくいのちあれ悔恨の火に焼きておくらむ

 

かへらざるもののひかりをとどめつつ波たちさわぐ気多のゆふぐれ

 

立ちしなふひとの姿を今は見ず一本の木もすでに枯れなむ

 

さうやつて見守るが良い 過ぎし日も 坐して在りにし相州の 山よ

 

山たかく雲のしろきの浮かびたるこの信濃路の遥かなるそら

  

 

◇歌集『たえぬおもひに』

 

さしあふぐ尾鈴の山のいただきをときをり雲のかくしゐたりぬ

 

ふと見れば並木の枝は天をさす枯れはててけふ冬の朝に

 

わが夢をしづめおきたるみづうみの今宵はもえて秋祭りなり

 

とらへむとせし日もありきこの朝の吐息のごときひとのこころを

 

舞ひ散りて雪に見まがふ花びらの桜はかなしけふも春なり