短歌鑑賞 齋藤史『ひたくれなゐ』


齋藤 史(さいとう ふみ/1909~2002)は、私ども昭和の終わり近くから短歌を志した者にとっては、はじめから「巨人」であった。本章でご紹介してゆく『ひたくれなゐ』に収められた作品が、昭和42年(1967)から昭和50年(1975)の期間のものだから、正真正銘、私どもが物心ついた時期と重なるわけである。

 

戦前の昭和15年(1940)に刊行された合同歌集『新風十人』の一人であり、さらに歌誌『原型』の主宰でもあり、歌壇の大きな賞をほとんど受賞していて宮中歌会始の召人まで務められた・・・と書いて行くと、軽々に短歌作品の鑑賞を、などとは言えなくなってしまう、そのような位置にあった方である。

 

 しかし山は高く、登攀が難しいほど、クライマーの闘志をかき立てるという。齋藤 史という巨人の胸を借りるつもりで、本章での作品鑑賞に臨んでみたい。


『ひたくれなゐ』を読む ③

Ⅲ 昭和四十四年     (前)

 

暁暗(あけぐれ)の何がはじまるとしもなき空の限りといふはいづ辺ぞ

 

「暁暗(あけぐれ)」の、かぎろいが立つか立たないかの空に、昧爽の明るみが差し初めているのかどうか・・・。そこに、どこまでが空なのか、という「限り」を探す作者の目がある。そして「何がはじまるとしもなき」というある種の絶望感・・・。この「何がはじまるとしもなき」が一首の眼目であろう。また、三句で切れるのか、下句へ続くのか、解釈の分かれるところでもあろう。希望を感じるはずの夜明け、「暁暗」に諦念を示し、「空の限り」を希求する作者の重い精神のありさまと、鋭い観察眼が見てとれる。

 

隧道をいづれば山の茜して未来明るき錯覚持たす

 

ここにも「山の茜」の示すものが、“明るき未来”であるのは「錯覚」だ、と言い切る作者がいる。作者にとって、暁暗の空も、隧道を出て見た山の茜も、決して希望を持てるものではないのだ。

 

透明に危ふきものを燃えしめて冬陽みじかき氷塊の谷

 

                    以上「あけぐれ」

 

作者にとって「氷塊の谷」を照らす夕暮れの冬陽は危うきものである。氷塊は透明に燃え、それを作者の内的感覚が「危ふき」と捉える。あるいは実際の情景ではなく、作者の内的イメージかもしれない。

この一連の歌では、「暁暗」「山の茜」「氷塊の谷」という事象を、独特の感性で、ある暗さを帯びた諦念として表現する齋藤史がいる。

 

次に「春」の歌を取り上げてみたい。

 

春にまぎれて眠るといへど獣園の檻に生まれて豹に故郷なし

 

獣園の檻に生まれた豹には、のびのびと暮らした故郷の山や森という原点がない。ただ獣園で眠っては起きる毎日が、死ぬまで続くのみだ。「春にまぎれて眠る」には、ものみな眠気が兆す春に、豹も眠るのだが、そこにはどうしようもない囚われたものの寂しさが漂う。ここに、作者の万物を憐れむ視線をみる。

 

木梢(こぬれ)やさしき五月の森の香りさへ断ちてゆくべし巣立てるものは

 

葉がさやさやとそよぐ木梢がやさしげな、五月の森の香りすら、きびしく後にして、鳥や獣は巣立たねばならぬ。ここにも生き物への「憐み」が見てとれる。

 

かろやかに風に吹かれてたどきなき朱黄の羽毛(はね)も春のまぼろし

 

                  以上「朱黄の羽毛」

 

春の風に吹かれてたよりなく動く朱黄の鳥の羽毛も、春というものの成せるまぼろしであろうか。「たどきなく」は古語「たづき」(方便、便りの意)に「なし」が付いた「たづきなし」から来るもので、「頼りない」の意。また、「たづきなし」の転じたもので、「たづかなし」という語も同意である。一、二首目に比べて、ややリリカルな調子の歌である。「朱黄の羽毛(はね)」が眼目。「朱黄」という言葉は辞書にはなく、作者の造語であろう。「朱」と「黄」であるから、鮮やかな小鳥をイメージする。「Ⅱ昭和四十三年」の評で掲出した「鳥」の歌の一連にあるように、この歌の「鳥」も震えるような危うい存在として、同じ系譜に連なるのだろう。

 

 

特に二首目の歌は、春というものが、ものみな舞い上がるような季節であることをゆるさない、作者の強い決心が見て取れる。また、闊達自在な、一、二首目の破調は、齋藤史ならではの思い切りのよい歌いぶりと言えよう。

 


『ひたくれなゐ』を読む ②

Ⅱ  昭和四十三年

 

盲鳥となりつきあたる夜の森の花の匂ひにまどはされ来て

 

声つまらせくわくこう鳥が鳴きしかば季(とき)を乱して咲く朱(あけ)つつじ

 

胸しぼり鳥は鳴きたり濃緑にがんじがらめとなる季節にて

 

                   「明日は見えぬ」

 

 作者には鳥にまつわる歌が多い。「鳥」という、か弱く小さく、またときには鋭く荒々しい存在を、己、あるいは盲となった母とみるのか。「夜の森の花の匂ひにまどはされ」る盲鳥、「声つまらせ」て鳴く「くわくこう鳥」、そして胸しぼって鳴く鳥‐そこでは狂い咲く朱つつじや、がんじがらめにする濃緑の季節が鳥を危うくさせる。震えるような危うい鳥の存在は、あるいは「声つまらせ」「胸しぼり」歌を詠む作者ともとれる。

 

 ついに鳥は、いつしか死へ向かうものとして立ち顕れる。

 

傷つきし野鳥の終り近ければいよいよ輝くそのすすき野は

 

                     「くだたま」

 

ここに本歌集タイトルともなった、昭和五十年「ひたくれなゐ」の名歌、

 

死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも

 

の萌芽をみることができる。野鳥の「死」と、それを前にしていよいよ輝くすすき野の「生」の対比、生と死を見据える作者の目が確かにある。

 

また上記からのかかる一連には、死を思わせる歌が多くみられる。

 

黄菊白菊活けられて夜の部屋死の匂ふごとき危ふさに居り

 

 死を意識し向き合う作者は力尽きる様をも見せる。作者の負うものはこれほどまでに重く、大きいのか。

 

背負ひ切れぬ夕日の重さ膝折らばすなはち野辺のひとくれの土

 

                     以上二首「くだたま」

 

 「背負ひ切れぬ夕日」、なんという比喩だろう。あるいは老いた母をも「背負ひ切れぬ」こととしてとらえているのか。いや、もっと大きな「いのち」そのものを背負いきれず、がっくりと膝を折るのであろう。そして待っているのは身を包むであろう「野辺のひとくれの土」だ。同様の歌は次の「冬雷」にもみられる。

 

すでにして草の襤褸(らんる)のわれの野に立ちてかぐろきあれは何の墓

 

 襤褸となった草の生うる作者の「野」に立つかぐろきもの、それを作者は墓と捉える。あれは何の墓か?自分の墓であろうか、と問うているのであろう。

 

 次の二首では死と真っ向から向き合っている。

 

頭上ゆく風のながれを聞きてをりわが風葬は終りたらずや

 

埋葬の白欲りすれば夜の雪・町荒涼となるまでを降れ

 

                           以上「冬雷」

 

二首目、「欲りす」は、現代一般的には「欲す」と促音便の形で使うことの多い動詞(他動詞サ変)。死を象徴するものとしての風や、雪。これら葬りを司るものは、作者の頭上をながれ、あるいはまわりに降る。「わが風葬」に表れているように、作者はこれらの「死」を自らに訪れるものとして捉えているようだ。作者が「欲りす」る「埋葬の白」も、おそらくは自らを包むものであろう。そしてこれらの死に対する覚悟は、のちに昇華されて、前述の「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも」(「ひたくれなゐ」)の境地へと変化(へんげ)するのであろう。


『ひたくれなゐ』を読む ①

 

 齋藤史の第八歌集『ひたくれなゐ』を鑑賞していきたい。この歌集は編年体で構成されているので、順次、年代ごとに検証させていただく。

 

Ⅰ 昭和四十二年

 

 かの水死者の髪なぐさめて赤き実のかざられしのち結氷期来る

                             「山湖周辺」

 

水死者は女性であろう。湖に赤い木の実が髪飾りのように降るが、結氷することによって死者は赤い実にかざられたまま、閉ざされた冬を迎える。あるいは水死者の姿はもうそこにないかもしれないが、結氷期が来ることによって、作者が見ている死者のまぼろしも氷に閉ざされる。そこに、作者の諦念にも似た厳しくもやさしい視線がある。

 

 ふりそそぐ光りの季節みじかきを はや眼の見えぬ蜻蛉(あきつ)・蟷螂(かまきり)

                              「白露」

 

成虫の寿命が数か月という、いのちの短い蜻蛉・蟷螂に生の光が降り注ぐ。が、その季節は短い。「を」は接続助詞「のに、だが」の意。「白露」の一連で掲出歌のすぐ後にはつぎの歌が置かれている。

 

目の見えぬ生きの不様(ぶざま)さを言ふ母が手をおよがせて茶碗をさぐる

 

短いが光りあふれる生の季節を終えようとしている蜻蛉・蟷螂に、老いて目のみえぬ母が「不様」と言った、そのどうしようもないやるせなさを、作者は重ねて見ているのかもしれない。そこには切ない作者の「生」への祈りが感じられる。

 

 北指せばつねにつめたし天霧(あまぎら)ひ雪は虚空に亡びつつ降る

                              「耳もて問はむ」

 

“北”を思いみるとつねにつめたく空いっぱいに雪雲が広がって万物を支配する「雪」の世界が広がるようだが、亡びゆくもの‐事象‐への挽歌として、虚空でその形をなさなくなり、降ってくる“雪”というものをも、作者はなぐさめているかのようだ。「天霧らふ」は四段動詞「あまぎる」に反復・継続を表す「ふ」のついたもの。「空一面に曇る」の意。

 

 断層の地底に水の道迷ふをなほわが耳をもて問はむとす

                              「耳もて問はむ」

 

作者の短歌という聴覚は、地底に迷う水の道をも問おうとする。それはもしかしたら作者自身が、迷う何かを「耳もて問」おうとしているのかもしれない。「なほわが耳をもて」の四~五句(句またがり)に、強い作者の意志を見る思いがする。

 

 鈴振るは鈴の音きよく聞かむため魂のめざむるよりけざやかに

                              「密呪」

 

「魂のめざむるよりけざやかに」鈴の音を聞こうとして鈴を振る、作者の切なる願いが感じられる。「きよく」と歌ったところに、魂がめざめるよりもっときよく鈴の音を聞きたい、という思いが見られる。「鈴」とは、あるいは錫杖についていたり、遍路などで振る鈴かもしれない。鈴というものの、魂とひとつづきとなる仏教的なイメージがここにはあるのだろうか。「けざやか」ははっきりしているの意。歌集中、一貫して、動物や死者、水や雪といったものに対する、齋藤史の慰めと濃やかな愛情が通っている。

 

 櫻桃熟るる上の青空夏光り氷売る少年 風売る少女

                             「密呪」

 

四句の「氷売る少年」までは一見爽やかなイメージを見せているが、結句の「風売る少女」で不思議な世界が立ち顕れる。氷を売る少年と風を売る少女との対比が、現(うつつ)の者と異界の者の対比にとれるのだ。

 

『ひたくれなゐ』の最初の一連を読んだだけでも、森羅万象に対する憐憫と愛情が通底して感じられる。これから、もっとより深く、齋藤史の世界に分け入ってみたい。