詩歌への誘(いざな)い

書き手の意識と読み手の意識について‐作歌上の「言葉選び」の問題として 

 

 この「美し言の葉」での短歌添削に作品をお寄せ下さる方の短歌作品を添削していて(Web公開作品集は「芽吹く言の葉」)、作者が何気なく用いた言葉でも、読者にはまったく違う受け止め方をされる場合がある、ということに言及し、私どもが過去に経験した歌会(対面、集合での短歌作品の批評会、今風に言えば、「リアル歌会」でしょうか)での「読まれ方」の体験を、お伝えしようと思い立ちました。 

 

 かつてわれのすべてが在りし駅の跡にしろじろとアメリカハナミズキ咲く  

                          歌集『奇魂・碧魂』収載 小田原漂情 

 

 青春の思いを歌った若書きの作品です。「字余り」の例として、本サイトにも紹介したことがあるように思います。さて、作者の思いとしての「すべてが在りし駅」は、青春の躍動の現場であり、一少年の通学の途上の駅に過ぎないのですが、この歌をある歌会に出詠した時、ある方から(大先輩で、すでに鬼籍に入られています。歌会自体、三十年ほど昔のことです)「これは駅長さんの歌ですか」という感想の言葉をいただきました。いま思うと、当時その方が現在の私どもと同年代か、あるいはさらにご年長だったと思われますので、その年代の方の受け止め方として、「退職した駅長の感慨」というとらえ方は、至極当然のものだったのかと考えられます。当時の私はそのように理解することができませんでしたが、受け手(読み手)の年齢なり立場なり、その環境によって、言葉というものは思いもよらない受け止め方をされることがあるものだということの例として、納得していただけるのではないかと思います。

 

  一首一首の歌を書き、推敲する時、「この言葉はどのように読み手に届くのだろう」ということを、考える習慣をつけて下さい。もちろん作品添削の場において、私どもも真摯にお答えしますし、メールや掲示板で質問していただいてもかまいません。作品を自分だけの「思い」の中にしまっておかず、他者と読みあい、批評を受けることで、作品および作者の世界も広がります。私どもも多くの方の作品にふれ、刺激を受けることで、また自らの糧にしたいと願っています。

 

 

 

 

 

 

詩歌とは~「短歌の持つ力」

 

 詩歌、特に私ども『美し言の葉』が主として扱う短歌について、この8月、一文をしたためましので、転載の形ではありますが、この場に掲げさせていただきます。

 

 

おかっぱの頭(づ)から流るる血しぶきに 妹抱(いだ)きて母は阿修羅(あしゅら)に

 今日(令和元年8月6日)の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式で、松井一實広島市長が平和宣言の中に引用した短歌である。詠んだのは、当時5歳だった被爆者の方だという。

 被爆した過去、原爆をうたった歌人と言えば、2010年に亡くなられた竹山広氏のことがすぐ思い起こされる。私は直接お目にかかったことはなく、氏の代表的な作品も、迢空賞を受賞された際に少しく拝見した程度である(お名前は1996年にながらみ現代短歌賞を受賞なさった頃から存じ上げていた)。しかし氏の短歌作品には、短歌という短詩形文学ならではの凝縮された「語る力」が溢れていたことを、私自身が短歌の実作からは遠ざかりつつある日々の中でも、瞠目する思いで見つめていたことを思い出す。

 さて、冒頭に引用させていただいた一首についてである。この歌の鍵となるのは、結句の「阿修羅に」であろう。「阿修羅」とは、広辞苑第六版では「(前略)天上の神々に戦いを挑む悪神とされる。(中略)絶えず闘争を好み、地下や海底にすむという。(後略)」とされている。一般的にも、戦いの神、己をかえりみず憤怒の形相で戦うイメージがあると言っていいだろう。
 被爆した時5歳だったという作者の妹は、より幼い、いたいけな童女だったはずだ。その頭から血しぶきがほとばしったと表現されているから、どのような運命だったのか、推しはかられる。その娘を抱いて阿修羅と化した母の戦いは、いかようなものであったのだろうか。「阿修羅に」と結んで具体的な描写がないことから、読者はその「戦い」を幅広く思いみることが可能だ。これが短歌という詩形の持つ力である。一つの解釈としては、幼い妹(娘)の命をつなぎとめようとして、「母」は阿修羅のごとく奔走したのではないかと考えられる。あるいは、その後の長い被爆者としての戦いを指すのだろうか。
 いずれにしても、短歌であるからこそ有している「語る力」を、この歌も持っており、われわれに強く訴えかけてくるものがある。そして、広島平和記念資料館がリニューアルし、被爆した犠牲者「一人一人」に思いを馳せて欲しいとするその理念とも、通じ合うものがあると言えるだろう。

 一首の短歌に深く思いを致しながら、松井市長が平和宣言でやはり引いた、「一人の人間の力は小さく弱くても、一人一人が平和を望むことで、戦争を起こそうとする力を食い止めることができると信じています」という当時15歳だった女性の言葉と、こども代表による「平和への誓い」の中の、「『悲惨な過去』を『悲惨な過去』のままで終わらせないために。」という願いとを、私たちも常に信じて、なすべき行動をつづけなければと心に銘じた、今日の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式であった。

令和元年(2019年)8月6日
小田原漂情


 以上の文章は、去る8月6日に、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式で、松井一實広島市長が平和宣言の中に短歌を引用したことを受けて、私の経営する言問学舎ホームページの塾長ブログに書いたものです。短歌作品とその解釈について述べましたので、転載させていただきます。
 なお「書くこと」の性質上、上記の文章は式典での松井市長の引用記事のみを見た段階で書き終えましたが、その後関連の報道を見聞したところ、引用された短歌作品の作者は村山季美枝さんという79歳の女性で、現在は文京区に住んでおられるようです(言問学舎も文京区にあります)。また中国新聞の記事によれば、「2歳年下の妹さん」が同居しておられるとのことです。

 

詩歌とは~「人はなぜ詩歌を詠むのか」②

 

 第2稿を書くのがすこしおそくなったことを、はじめにお詫び致します。

 

 前回、「詩歌」というものは、散文では書きにくい「作者の”生”の衝動」を、そのまま表出するところに、その特質があるのだと述べました。

 

 たとえば散文で、作者(筆者)の感じたことをそのまま書くことの最初の形式は、「日記」でしょう(日記が毎日つづられ、あるいは多少の間断を許しても、継続性、記録性を持つことと、そのために生まれる価値については、別に評価します)。

 

 しかし日記は、原則としては他者に見せない「個人の記録」として、個人の日々の思い(または行動など)をつづるものです。「他者に読ませること」は、本来想定されていないはずです。一方日記以外の散文の場合、やはり個人の記録として書きとめるものを別にすれば、そこでは他者に「読まれる」(「読ませる」)ことが前提であり、それが文学を志向するものであるならば、「個人の思いの生の表出」とは、いささか異なるものになると考えられます。

 

 ここに「詩歌」と「散文」の、書き手における大きな立ち位置の違いがあります。「詩歌」はほとんどの場合、何らかの形で発表する、すなわち他者に読んでもらうことを想定して書かれるものです。古来、そうした性質を帯びているからです(もちろん、はじめは一人で書きはじめる、読みはじめることに、何の問題もありません)。なおかつ、主たる内容は、「個人の思い」であることがふつうです。とりわけ短歌は、五句三十一音という適度な短さ(十七音の俳句と比べれば、長さ)のゆえに、作者の「思い」を、かなり直截的に盛り込むことができるのです。

 

 「直截的に」ということについては、中村草田男と石川啄木の有名な俳句、短歌を題材にして、お話ししたいと思います。

 

 万緑の中や吾子の歯生え初むる   中村草田男

 

 私たちをとりまく今日現在も、折りから「万緑」の時に近づいてゆこうとしています。そしてこの句は、万物の力がみなぎって木々の緑が蘭けてゆくころ、作者の幼い子の歯も生えはじめた、その感動を、「感動」という表現を用いずに、見事に言いつくしています。これほどに、まだ若い作者が自分と家族の生命のよろこびを詠み尽くした表現は、おそらくなかなか見出せないでしょう。この俳句の完成度は非常に高く、短歌と「比較」するために引用しているのではありません。

 

 ただ、俳句と短歌、それぞれを志す書き手には、おのずと志向するところ、また言葉の運び方や心の用い方に、差違があります。

 

 いのちなき砂のかなしさよ

 さらさらと

 握れば指のあひだより落つ   石川啄木

 

 俳句であるならば、啄木のこの歌は、「砂のかなしさ」の描写のために、全十七音が費やされるのでしょう。また「かなしさ」という言葉は、おそらく十七音の中では採用されないと思われます。つまり、「かなしさ」を、「さらさらと」「指のあひだより落」ちる「砂」に託すことができるところに、短歌と俳句の差違があるのです(どちらに優劣があるということではありません)。

 

 短歌が「直截的に思いを盛り込む」ことができるのは、この下句七・七の、十四音のおかげです。もちろん、だからと言ってただ言葉を並べるだけでは(最初は当然かまわないのですが)、読んでくれる読者に「何かを伝えられる」歌にはなりません。しかし、散文と異なり、自らの意の表出を前面に出しながら他者に読んでもらうこともでき、なおかつ自分自身の「思い」を強く盛り込むことのできる身近な詩形(短詩)として、短歌は千三百年以上にもわたる長い年月、この日本の国の人たちに受け入れられ、愛されて来たのです。「多くの思い」を作品中であらわしたい方には、短歌がおそらくもっともふさわしいのではないかということを、今回はお伝えしておきたいと思います。

 

※本年(平成27年)5月17日(日)に、当サイト運営者である小田原漂情、石井綾乃による、「桜草短歌会」第一回歌会を開催致します。詳細は当サイト「桜草短歌会のご案内」をご覧下さい。短歌の経験の有無、これまでの当サイト(『美し言の葉』、「芽吹く言の葉」)とのつながりにもまったくかかわりなく、短歌を志す方みなさまにご参加いただけます。

 

 

詩歌とは~「人はなぜ詩歌を詠むのか」①

 

 当サイトを訪問して下さる方々に、あえてご説明する必要はないと思いますが、「詩歌」は「しいか」と読み、文字通り「詩」や「歌」、国語的な分類をすればおもに近現代の「詩」、および古典から近現代に至る「短歌」「俳句」などを指すものと言っていいでしょう。ただし、萬葉集などの時代には、長歌、片歌、旋頭歌(せどうか)、仏足石歌などの形式もありますし、さらに広義には、歌舞音曲も、「詩歌」の範疇にあるものかとも思われます。

 

 さて、本欄「詩歌への誘い」におきましては、あつかう範囲を、詩・短歌・俳句、まれに長歌などとさせていただくつもりでおりますが、進発当初の課題として、「人はなぜ詩歌を詠むのか」という命題を、提起したいと思います。あわせて語の定義を述べておきますが、「短歌」「俳句」も、広義には「詩」の一部です(その中の「定型詩」の、それぞれ固有の形態)。ですから、ここで「詩」というのは、主として明治以降、欧米の詩人の詩作品を日本の文学者が翻訳・紹介したものを含め、明治以降に書かれた「自由詩」と、七五調・五七調で短歌・俳句とは異なる書き方をされた「定型詩」であるということに、決めさせていただきます。

 

 前置きが長くなりましたが、「人はなぜ詩歌を詠むのか」ということを、これから数回に分けて、述べさせていただきます。

 

 「詩歌」と対置される文学の代表的な形式は、「小説」です。小説は散文ですから、読者をある意味論理的に、かつ一定時間継続的に(いずれも詩歌と対比して)、その構成の中に引きこんで行くという特徴があります。作者の用意した仕掛けの中に、読者がとりこまれて行くという言い方も、できるかも知れません。

 

 それに対して、詩歌では、多くは作者がその”生”の感情や衝動を、そのまま表出し、読者にぶつけるという性質があるのです(いわゆる「現代詩」では、「そのまま表出」という言葉は直接あてはまりませんが、「表現」の本質としては、そういうことです)。

 

 もっとわかりやすく言うと、「詩歌」を書くことにより、散文では表現できない、曰く言い難い表現者の情念、パトスというものを、ストレートにぶつけることができるのだ、ということなのではないでしょうか。

 

 今後、この「美し言の葉」におきまして、このことをともに考え、「詩歌」の世界を多くの方と一緒に広げて行くことができるよう、祈るものです。

 

                                                  小田原漂情 

 

詩歌の基本①‐枕詞と序詞

 

 今年、平成26年2月24日実施の東京都立高校入学試験(学力検査/前期)の国語では、古典を扱う大問五で、「百人一首」に関する、歌人馬場あき子氏と水原紫苑氏の対談の文章が、主として引用されました。

 

 実は昨年も、「三大随筆」と呼ばれる鴨長明の『方丈記』について、長明の歌人としてのありように関する対談が題材でした。2年続けて、和歌(短歌)に関連する出題だったということです。新指導要領において、小3で俳句、小4で短歌を教え、日本の古い心を学ばせようという方向から考えれば、自然な流れなのかもしれません。

 

 私自身、「歌人」の一人でありますから、こうした状況下、特に多くの人が疑問に思われる、あるいはもっと端的に「わかりにくい」ことについてお話しするのも、私および当サイトの責務の一つであるかも知れないと思い、稿を起こした次第であります。

 

 「枕詞(まくらことば)」と「序詞(じょことば)」。古文を習う際、また短歌を書こうと志す方からも時おり質問される、短歌特有の決まりのひとつです。ここでは「よく知らない、よくわからない」方を対象としますので、端的にまとめます。

 

・枕詞‐ある言葉を導き出すために、「あらかじめ決まっている」、主に5音、まれに4音の言葉。

  

  例) ひさかたの→光 ちはやぶる→神 たらちねの→母  など

     4音の例は、さねさし→相模  ももきね→美濃 など、ふるい地名に関           して散見される

 

・序詞‐ある言葉を導き出すために、「その都度作者によって詠まれる」、主として   2句(5・7音)以上 の節。

 

  例)①浅茅生(あさぢふ)の小野のしのはら→しのぶれど 

    ②多摩川にさらす手作り→さらさらに  

 

   ①「しのぶ」を言うために、小野のしのはら までの序詞全体を言う

   ②「さらさらに」を言うために、手作りの布を川にさらさらと「さらす」こと

    を言う

 

 これが、「枕詞」と「序詞」の性質であり、違いです。ここにお示しした「骨格」さえわかっていれば、さしてむずかしいものではありません。

 

 もちろん、枕詞は「覚えること」、「序詞」は、「読みとること」が大事です。現在、実際に短歌の実作をする上で「序詞」の技法を駆使するということはほとんどありませんが、「枕詞」は実作の際にも役立ちますし、「枕詞」は古典・近代とも、「序詞」は古典の時代の短歌を読み解くのに、やはり知っておくべき技法ですから、本稿がそのお手伝いになるとすれば、幸いです。

 

     (初出:『国語力.com』~言問学舎・小田原漂情運営~のものに加筆修正)