地名、駅名、そして旅

その二.山梨県 中央本線(東線) 旧『初鹿野(はじかの)』駅とその周辺のこと<下> 

かつて幾度となく往来し、生まれ故郷か、もしくは父祖の地かと感じるほどに親しんでいた甲斐の国、その中でもとりわけなつかしく、まるで何かに引き寄せられたのではないかと思われる笹子峠の一帯でしたが、国道20号線(甲州街道)から脇道へそれるのは、この時がはじめてでした。

 

日川の渓谷に沿って、景徳院をめざします。やはりなじみ深い中央高速(中央自動車道)の、谷の上へ張り出したような橋梁部分も、なつかしさを誘います。

 

ここで日川にまつわる、この一帯をご紹介するには欠くべからざる武田滅亡の際の言い伝えを、お話ししましょう。私がこのことを知ったのは、やはり八ヶ岳に親しんでいた勤務先で出会った一冊の本、『甲州の伝説』でした(角川書店/土橋里木、土橋治重)。土橋治重先生には、私は第一歌集『たえぬおもひに』をお送りし、ご返書のお葉書を賜っておりまして、先生のご文章で学んだお話を自分の言葉に置き換えるのは僭越なのですが、一部分の引用よりは、本稿のこれまでの流れと文体でお読みいただくことをおゆるしいただいて、お話しさせていただきたいと思います。

 

武田家の滅亡、それは信玄没後9年、長篠の戦いから7年後の、天正10年(1582年)のことでした。長篠で「武田四天王」といわれた老将のうち3人を失い(残る1人の高坂弾正は1577年に病没)、北条や上杉と連携してもなかなか勢威を回復できずにいた勝頼は、祖父信虎の代からの、守りの弱い躑躅が崎の館を出て、新府城を築きました。現在の中央本線で、韮崎の次の駅が新府駅となっている、あのあたりです。

 

しかし新府城は、織田の攻勢に備えて築城したのですが、一応の完成は見たものの、何よりも大切なものが、欠けていたのです。それは父信玄が、甲州のうちには城はいらぬ、躑躅が崎の館で十分だ、と語ったことの根拠である、「人」でありました。

 

人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり (信玄の有名な歌)

 

 長篠の戦いの敗戦も、先述の「武田四天王」をはじめとする信玄薫陶の譜代の老将たちと、武勇にすぐれ自分の方針を通したい勝頼との断絶に、内なる敗因があったという見方が多くあります。さらに、長篠での敗戦後、武田内部の統制はほころんでゆき、織田の圧力が強まるこの頃には、逃亡者が後を断たなかったのだと言われています。のち本能寺の変の直後、徳川家康と一緒に堺見物に行っていて、別行動で帰る途中に命を落とした穴山信君(梅雪。信玄の甥、勝頼の従兄弟)も、勝頼を支えるべき一族の中で重い位置にありながら、離反してしまっていたのです(そのため甲斐征伐の報奨とも言われる家康の上京に同道)。ちなみにこの穴山氏は一族としても武田氏の親族中で重要な地位にありました。なお中央本線では韮崎を過ぎてから、先ほどの新府、そして穴山の順に駅があります。

 

 甲斐の国、とりわけ現在の甲府市街である古府中とくらべて、景徳院をめざすこの道は、ほんとうにうらさびしい山道です。供の者四十三人と伝えられる少人数で、行く手を重臣であった小山田信茂の軍勢にはばまれ、このせまい山道へ分け入った勝頼主従の胸中は、いかばかりであったかと察せられます。

 

 土橋治重先生は、この勝頼公一行をあわれむ甲州人の心情が、四十三人の従者の一人であった侍大将土屋惣蔵を主役として、次のような物語を生んだと語っておられます(以下の文章は引用でなく、小田原の記述)。

 

 <逃れる見込みのない勝頼一行を(奥方ほかの女性も含む)、いよいよ織田の軍勢が追って来た。侍大将土屋惣蔵は、ここが最後の働きどころと、命を的に戦った。その働きはすさまじかった。

 

 この日川の渓谷は、左が断崖、右は切り立った崖という、けわしい地形である。逃げのびる勝頼一行も、追い立てる織田勢も、谷に沿ったせまい道を、一人ずつ歩いて進むほかはなかった。

 

 そのせまい崖みちの曲がり角で、惣蔵は、左手で藤づるにつかまりながら、右手で、一人ずつ進んで来る敵を、次から次へと斬り倒した。何しろ相手は、せまい道を一人ずつ進んで来るので、曲がり角に強敵がひそんでいるのに気づかない。こうして惣蔵は、三日間にわたり千人もの敵兵を斬ったと伝えられている。その場所を、「土屋惣蔵片手切りの跡」と言い、また三日三晩斬られた兵の血が流れつづけた日川のことを、「三日血川」と、呼ぶようになった。土屋惣蔵は、奮戦すること三日をすぎて、さすがの勇者も力尽きたか、刀の刃がとうとうこぼれて失せたためか、最後は敵に討たれ、日川の渓谷に散ったという。>

 

 そしてほどなく、勝頼と世子信勝、奥方はじめ身のまわりの者たちも、自刃して果てたと言います。この日川の奥にひっそりとたたずむ景徳院は、信玄が眠る塩山の恵林寺(えりんじ)よりもなお静かで、訪れる人も少ないように思われました。十数年を経て、さらに奥深くの嵯峨塩鉱泉に泊った時、その傍らを通りましたが、その日も景徳院は、静まりかえっているようでした。一時は天下を取るかと思われた甲斐武田氏、そのあまりにも急ではかない最後のさまが、この景徳院に凝縮しているように思えたものです。

 

 現在の中央本線甲斐大和駅、旧初鹿野駅は、こんな武田哀史への入り口の駅であります。ちなみに余談となりますが、私ども(小田原・石井)は結婚した年の秋、新宿から見て甲斐大和駅のひとつ手前である笹子駅に下り、旧笹子峠を徒歩で越えて、この旧初鹿野駅に下り立ちました。もちろん私(小田原)のたっての希望だったのですが、それはおそらく、今回書かせていただいた笹子峠と武田滅亡の哀話とが、私を呼んでいたのだと、思われてなりません。

 

※笹子峠を直接の舞台としているわけではありませんが、小田原漂情の甲斐の国への思い、関わりが小説として結実したのが、当ホームページでもご紹介しております『遠つ世の声』です。ご関心のある方は、ぜひご一読下さい(スマートフォンでお読みいただけます)。「歌集・小説・エッセイ販売のご案内」のページ内、小田原漂情KINDLE(キンドル)版ご案内をご覧下さい。


 

その二.山梨県 中央本線(東線) 旧『初鹿野(はじかの)』駅とその周辺のこと<中> 

さて、今回は、私自身が初鹿野周辺を歩いた経験から、お話しさせていただきたいと思います。

 

「歩く」という言葉についてですが、古語では「歩(あり)く」と読み、現代語と同じ「歩く」の意味のほか、そぞろ歩きをする、逍遥するといったニュアンスも、含まれておりました(もちろん現代語にも、あるのですが)。その意味で、この界隈はたくさん自分の足でも歩きましたが、はじめは電車や車で往来したことから、ふりかえりたいと思います。

 

前回お話ししました通り、私がはじめて初鹿野駅を知ったのは、高校3年生の夏、中央本線(東線)の急行(『アルプス1号』・『こまがね1号』)に乗って、甲府へ行った時です。その夏のうちに、身延山久遠寺を従弟とたずねた帰りにまた通り、大学時代には、毎夏の合宿(文学研究会)での信濃境への行き帰りに際し、さらに深く親しみました。

 

ところで大学卒業後、私はちょうど3年間、八ヶ岳山麓の小海線甲斐小泉駅近くに事業所のある会社にお世話になりましたが、入社してからも、もちろん中央東線は頻繁に使いました。しかし社用ですから、より機会が多いのは車での往復です。ある時、東京で震度4か5(今ならば5弱)の地震があり、八王子料金所で「この先通行止めの可能性あり」と聞いて八ヶ岳へ向かったものの、最初のインターチェンジである相模湖ICで、一般道へ下ろされてしまったのです。

 

この時のことは、拙著(『遠い道、竝に灰田先生』)にも書いてありますので割愛しますが、その後私は、国道20号線の(新)笹子トンネルに、親しくなじむこととなりました。単独での出張の際は、中央高速(中央自動車道)で何もなくても、高速の笹子トンネル(いずれ述べますが、「笹子トンネル」の「新」「旧」は、20号線が開通した際の旧道との対比における「新」「旧」であり、中央本線はもとより中央自動車道も、ただ「笹子トンネル」と名乗っています)の手前の大月ICで高速を下り、20号線の(新)笹子トンネルを越えてから、勝沼ICか御坂一宮ICで高速に戻る、というルートを、選択していたのです。

 

さて、そろそろ本題に戻りたいと思います。前回ご紹介した、初鹿野駅から20号線の笹子トンネルへ向かう手前にある「峠の茶屋」(「峠のラーメン」が看板だったようにも、思えて来ました)に出会ったのは、この、「国道20号線での笹子トンネル越え」が、きっかけだったのです。

 

国道20号線を大月から甲府へ向かって行くと、中央東線にほぼ沿って、初狩、笹子の各駅を見て過ぎます。しかし笹子からしばらく行くと、道がS字カーブの連続になり、途中左手に「笹子峠」の標識を見送って、国道はさらに深い山のきわみへ上って行くのです。そして、もうこれ以上は進めない、というどんづまりに、オレンジ色の灯をともした笹子トンネルがぱっくりと口を開けているのですが、これはもう、都会育ちの22、3歳の若者には、心底恐ろしいものでした。

 

3キロメートルほどの笹子トンネルをおそるおそる抜け出ると、かなり急な坂を下りながら、少しずつ、人家の灯りなども見えてきます。その突き当りのようなカーブのところにあったのが、「峠の茶屋」だったのです(前回は初鹿野駅側から、そして今回は笹子トンネル側から、「峠の茶屋」への道を紹介させていただきました)。

 

この「峠の茶屋」に、私がはじめて入ったのは、「20号線の笹子越え」をしていた頃からは、すでに何年も経った頃でした。その頃私は、転職した会社でさらに名古屋へ転勤していて、折り折り東京へ戻る際、ふつうは新幹線を使いましたが、フリーで時間がある時など、たまに中央西線から中央東線へと、大好きな「山線」の旅をしたのです。ある時、名古屋からプライベートで東京をめざす行き先が新宿で、土日連休の土曜のことでもあり、その日は迷わず、中央線東西連絡の途を選びました。さらには、夕方新宿へ着けばいいという日程であることから、かねて歩いてみたいと思っていた初鹿野界隈を歩いてみようと、計画したのです。

 

朝の9時過ぎに名古屋(千種駅)を出ても、塩尻で乗り換え、甲府へ着くのは昼過ぎです。甲府から普通列車に乗り換えて、30分ほど。勝沼駅(現勝沼ぶどう郷駅)からトンネルをいくつか抜けると、ようやく初鹿野駅(現甲斐大和駅)に到着しました。昔なじんだ道ですから、案内も乞わず、地図も持たないまま、まず国道20号=甲州街道をさがしあてました(さして複雑な道すじではありません)。甲州街道に出てしまえば、あとは笹子トンネルの方向へ、坂を上るばかりです。

 

この時、夜間に車でこの甲州街道を走りぬけた頃から4、5年は経っていたと思いますが、ひさしぶりに、故郷とも呼びたくなるほどの甲州を歩いている昂揚と、あまりにも親しんだ笹子、初鹿野あたりの甲州街道であったため、道に迷うことも、上り坂に疲れを覚えることもなく、ずんずんとかなりの上り勾配を、上って行きました。

 

そしてほどなく、なつかしい「峠の茶屋」のカーブのところに至りました。すぐにも飛びこんで、ラーメンとビールを頼みたいところでしたが、たぶん20代も終わり近い頃だったのでしょう。腕時計をにらみ、店の営業時間をたしかめて(中に入って聞いたわけではありません。日中に通ったこともあったため、昼間は通しでやっているような覚えがあり、「2時まで」などの貼り紙がないかどうかだけ、確認したのです)、ちょうどそのあたりからが分去れ(わかされ)となっている、景徳院への道へふみ入りました。夜は新宿で宴会、名古屋からここへ来るまでもビールを飲んでいる、そのあたりを、少々慮ったのです。20代の前半なら、間違いなくただちに茶屋へ飛びこんでいたことでしょう。

 

その二.山梨県 中央本線(東線) 旧『初鹿野(はじかの)』駅とその周辺のこと<上>            

 「平成の大合併」以降にはじめて、この「甲州市」に存在する中央本線『甲斐大和』駅をたずねられた方は、どのような印象をお持ちになったことでしょう。もちろん、「甲斐大和」=「大和村」の駅として、その駅名に親しまれた多くの方々のお心を思いながら、書かせていただく一文です。

 

 この駅は、中央本線が八王子方より開通した昔から、長く「初鹿野(はじかの)」駅という駅名でした。その当時は、「山梨県東山梨郡初鹿野村」というのが、駅のある村の名前でありました。

 

 さらにふるく、「初鹿野」の名は、武田信玄靡下(きか)の足軽大将「初鹿野伝右衛門(はじかのでんうえもん)」の名にも見られます。戦国時代以前の国人(こくじん)、小豪族が、みなその地の名を名乗っていたならわしが、この「初鹿野(はじかの)」にもそのまま見受けられるのです(名=姓または苗字が先か、地名が先か、という話は、後日のテーマとさせていただきます)。

 

 私自身が、初めてこの駅の名を目にしたのは、高校3年、満でいえば17歳の夏でした。大学受験の年でしたが、どうしても旅に出たくなり、旅とはいっても神奈川県の県央部から甲府まで日帰りの、幼い旅でした。

 

 八王子から西へ向かい、急行停車駅の大月を発車すると(昭和55年=1980年)、初狩駅、笹子駅を通過して、ほどなく列車は4000メートル級の笹子トンネルに入りました。ああ、これがあの笹子トンネルか。何となく、その名前と歴史を知っていたようで、深い思いがありました。

 

 そして笹子トンネルを出抜けると、わずかに開かれた平らな土地に、上下本線の間に中線式の待避線を持つ、『初鹿野』駅があらわれたのです。その駅は、私にとって非常に印象的なものでした。はじめてそこを通ったその朝は、下り線を通過する急行の車内から見た上り線の島式ホームが、首都圏の私鉄に多い上下線待避式の、4線構造のように見えたのかも知れません(実際は3線式)。

 

 また、特に急行や特急などの優等列車では、笹子トンネルを抜けて初鹿野駅を通過したあと、すぐまたトンネルの連続する区間にさしかかります。トンネルとトンネルの間に駅があり、さらにトンネルのつづいている山岳路線の魅力が、この初鹿野周辺で如実に感じられます。はじめてこの中央東線の「山線」を経験した私があっけにとられてしまったのは、当然のことだったとも思われます。

 

 さて、甲斐大和駅=旧初鹿野駅は、甲斐武田氏滅亡の哀話への、入り口でもあります。橋上の駅舎から左へ下りると小学校があり、そのすぐそばの線路脇に「初鹿野の大杉跡」の案内板なども見受けられ、この一帯が旧大和村の中心地となっています。南側に甲州街道(国道20号線)が通っており、東の方角、甲州街道の(新)笹子トンネルの方へと、上って行きます。そして笹子トンネルへのきつい上り坂にさしかかる手前に、直角に近い急な右カーブがありますが、その左手に、私がこの界隈に親しんでいたころは「峠の茶屋」がありました。くわしい名前を失念してしまいましたが、名物ラーメンがあり、山女魚の塩焼きなどでお酒を飲むこともできる、いいお店でした。このカーブの付近から左手の方に分け入る道があり、そこをたどると、日川の渓谷に沿って、勝頼親子(勝頼、夫人、世子信勝)のねむる景徳院へと、向かうことができるのです。

 

 甲斐武田氏は、甲斐源氏の嫡流で甲斐の守護職をつとめる名門でしたが、領国は信玄の父信虎の時代まで、甲斐一国であり、周辺諸国との戦もつづいていました。その父信虎(暴虐な性情とふるまいが領民はもとより家臣にも怖れられていた)を駿河国へ追いやり、二十一歳で国主となった信玄(晴信)の時代に、武田領は甲斐に加え信濃のほぼ全域と、西からそれぞれ美濃、三河、遠江、上野の一部にまでまたがる大国となったのです。そして、信玄が天下を掌握するという期待のもとに、甲斐武田氏は空前の繁栄をみたのでした。

 

 しかし信玄は、天下に号令するための上洛の途上、三方ヶ原で家康を撃破したものの、その後すぐ病にたおれてしまい、上洛はおろか甲斐へ戻ることもかなわず、信州駒場(こまんば)で没したとされています(亡くなった場所については、諸説があります)。

 

 跡を継いだ勝頼は、しばらくの間、戦にも連勝し、信長や家康の強敵でしたが、有名な長篠の戦(1575年)に大敗すると、それまでの勢威を保つことができなくなりました。そして1582年、織田・徳川連合軍が甲州に攻め入った際には、靡下の武将や軍団も四散してしまい(そもそも信玄薫陶の馬場美濃守、内藤修理、山形三郎兵衛など有力な武将は長篠で戦死し、高坂弾正も1578年に死去)、防衛のために急造した新府城も用をなすことなく、甲斐大和=旧初鹿野駅からほどない天目山麓の田野に追いつめられ、勝頼父子は自刃して、名門甲斐武田氏は、ここに滅びたのです。

 

 勝頼公と奥方、世子信勝公は、自刃した場所に近い景徳院に、のちに葬られました。この武田滅亡の哀しみを伝える地としても、旧初鹿野駅(甲斐大和駅)は、曰く言いがたいたたずまいを見せているのです。


三方ヶ原の戦のあと、病に倒れた信玄の病没の場所は、奥三河(愛知県北設楽郡設楽町)の田口とも言われています。田口の福田寺(ふくでんじ)に、信玄の墓と伝えられる塚があるのです。『歌集・小説・エッセイ販売のご案内』のページでご紹介しております拙著『遠つ世の声』では、そのあたりのことにも言及しております(電子書籍=Kindle版です)。

 その一.愛知県『知立』のこと

 

地名・駅名についての本コラム、初回は愛知県知立(ちりゅう)市のことからお話ししたいと思います。知立市は、愛知県西三河の西端寄り、刈谷市と豊田市の間に位置しており、安城市にも隣接しています。JRの駅はありませんが、名鉄の知立駅が、名古屋本線と三河線の分岐・合流駅となっていて、立体交差を含み、かなり複雑な配線をとっています(三河線と本線の連絡はできますが、本線は基本的に複線のみのため、本線だけならまずシンプルな配線と言えます)。

 

 さて、難読地名の一つと言っていい「知立」ですが、むかしは「池鯉鮒」と書いたようです。そのまま音読みして「ちりふ」が、「ちりゅう」となったのでしょうか。知立市のホームページでは、江戸時代に東海道の宿場と定められたとき、「池鯉鮒」の文字をあてたと解説されています(そうだとすると、ちりゅう→ちりふ、で、読みはあくまでも「ちりゅう」となります)。大正・昭和の詩人田中冬二は、「池鯉鮒の女」という作品を書いており、私は少年時代にその詩によって、池鯉鮒=知立の名を知りました。

 

 知立というこの地名(駅名)には、かつて名鉄の特急「パノラマスーパー」に乗務していた「パノラマレディ」の、非常に印象深いアナウンスの記憶があります。「パノラマレディ」とは、「パノラマスーパー」全盛の90年代前半に(その初頭はパノラマカー7500系白帯車がまだ座席指定特急でした)、「パノラマスーパー」の女性車掌を、そう呼んでいたものです。

 

 ある日私が、豊橋から名古屋の金山まで乗った列車のその人は、知立停車の案内に際し、次のようなアナウンスを、してくれました。

 

 「次は、ちりふ、ちりゅうに停車します。間もなく、ちりふ、ちりゅうでございます。」

 

 二度にわたって、「ちりふ→ちりゅう」と告げた彼女のアナウンスに、私は感銘を受けました。パノラマレディさん、なかなかいいぞ、と。特急の乗務員ゆえ、乗客サービスに意を払うのが当然とは言いながら、地名をよく知り、愛していることのうかがえる、何とも味わい深いアナウンス、言葉のひびきでありました。

 

 「池鯉鮒」という名は、池の鯉、鮒という字から成り立っています。水の多い土地がらをあらわしているのかと、考えたくなります。そう言えば、名鉄三河線の二つ豊田市寄りに、「三河八橋」駅がありますが、これは『伊勢物語』の「東下り」冒頭で、「水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋と言ひける。」と書かれている、あの八橋です。三河八橋駅の近くを流れる逢妻男川(あいづまおがわ)が、知立駅の北方で逢妻女川(あいづまめがわ)と合流しており、ひとつになった逢妻川は、刈谷市内の逢妻駅の西方で、三河と尾張の境界である境川と流れを連ね、そのまま衣浦(きぬうら)湾へと注いでいます。

 

 十数年前には、これらの川同士が出会う刈谷・大府一帯を含む愛知県各地で大水の災害があり、数年前に逝去された歌人青柳守音氏は、平成15年(2003年)刊行の歌集『風ノカミ』において、大府を「水府」とした連作を詠まれています。

 

 『伊勢物語』の時代から語られているこの土地のすがたを思う時、「池、鯉、鮒」から「ちりふ→ちりゅう」という地名が生まれたのも、むべなるかなと考える次第です。