短歌のいろは

このページでは、石井綾乃が短歌の初心者だったころ、悩んだこと、疑問に思ったこと(とくに文法)などについて、少しずつ書いていきたいと思います。初心者の方々の「?」に、少しでもお役に立てれば、と思います。

其の七

結句の終止形と連体形

 

今まで色々な方達の短歌を拝見したり、添削をしたりしておりますが、

一首の収めかた、ということを考える機会が多くなりました。

もちろんさまざまな収め方があります。

 

その中から、結句を終止形で留める場合と、連体形を用いる場合について、

考えてみたいと思います。

 

具体例がないと分かりづらいので、拙歌を挙げます。

 

1、言葉なく弥生の床を畳みたり母責むる夢にわか寂しき

 

2、言葉なく弥生の床を畳みたり母責むる夢にわかに寂し

 

私は最初、1の「にわか寂しき」と詠みました。小田原はそれを読んで、

「にわかに寂し、とどちらがいいと思うか」と尋ねてきました。

私は「にわか寂しき、だ」と即答しました。

小田原は「分かった」と言ったきり、解説らしいことは言いませんでした。

 

連体形を用いると、この歌の場合はやや不安定な、おきどころのない感じが生まれます。

「寂し」で留める終止形は、こぢんまりと納まってしまう、と私には感じられました。

小田原が私に尋ねた理由は、不用意に使っていないか、終止形の場合も考慮に入れたか、の確認と注意の意味だったと解釈しています。

不用意な「破調」(本来は定型をくずすことを指しますが、幅広く文法をくずす意を、ここでは込めます)は一首を生かすのではなく、殺すことが多い、というのが小田原の持論です。

 

結句に限らず、歌を推敲するとき、いろいろに言葉を動かしてみて、

雰囲気やムードで安易に言葉を使ってしまわぬよう、留意する。

小田原に教えられた一幕でした。

 

 

 

 

 

其の六

短歌ノートと短歌メモ

短歌を作るとき愛用しているのは、

小型の罫線の入ったメモ帳と、どこにでもあるボールペンです。

メモ帳も、特別なものではなく、

コンビニエンスストアで売っているものを購入して使うことが多いです。

対して小田原は、ながらみ書房さんで発行している、「歌人手帖」を、

いつのころからか愛用するようになりました。

 

私の短歌メモの話に戻りますが、

このメモ帳をあたらしくおろしたときは、

表紙か見返しのところに、小田原が必ずひとこと書き添えてくれるのが慣いです。

もちろん短歌を詠むにあたって、の言葉です。

一冊のメモ帳で2年位はもちますから、

それを標に、2年余り、短歌を詠むことに取り組むのです。

 

一方、短歌ノートと呼んでいるのは、

普通の大学ノートに、いままで詠んできた短歌を清書したものです。

これも小田原の真似ですが、後で修正できるよう鉛筆で書きます。

七冊目までは書いたのですが、生来の無精から、

いつのまにか推敲のあともくっきりとした、

短歌メモだけでよし、としてしまうようになりました。

ちなみにメモもノートも、縦書きです。

 

歌集を編むときは、このノートとメモが頼りです。

短歌を詠む別の楽しみとして、こういう道具にこだわるのもいいかもしれませんね。

 

其の五

短歌を作る短歌」

 

まだ短歌に慣れなかったころ、私は「短歌を作る短歌」を、よく詠んでいました。

つまり、いかに苦心して短歌を詠んでいるかといった様や、

自嘲的に、短歌を詠む自分を短歌に表現したりするということです。

しばらくそういったことを続けていましたが、

ある日、小田原がポツリと言いました。

「短歌を作る短歌って、やりたくなるけど、つまらない歌になることが多いんだよね」

と。

その日から、私は「短歌を作る短歌」を詠むのをやめました。

たしかに他の作者の「短歌を作る短歌」を読んでも、

あまり感心することはありませんでした。

全否定するつもりは毛頭ありません。

そういった歌のなかにも、秀歌もありましょう。

ただ、私は「短歌を作る短歌」を詠んだとき、

「これは」という納得いく歌ができないのです。

もちろん自身の力不足であるからなのですが。

そして「短歌を作る短歌」を究めようとするよりは、

もっと別の切り口で、短歌を詠むことに挑戦したい、と思うようになりました。

 

「短歌を作る短歌」に取り組むべき時期、というものがあるのかもしれません。

それをひとしきり経験して、また短歌という道の「分去れ」に立つのかもしれませんね。

この一文が短歌を始めた皆様のご参考になるかどうかわかりませんが、

 ちょっと頭の隅に留めておいていただけたら、と思います。

其の四

直喩と隠喩

 

短歌において、すぐに思い出せる直喩は「ごとし」(ごとき、ごとく)でしょう。

(口語なら「ようだ」)。

短歌を始めたころは、当然のように「ごとし」「ように」を多用していました。

また、短歌を始めたばかりだと、最も使いたくなる言葉とも言えます。私が第一歌集「風招ぎ」をまとめ終わった頃のことです。

その中に、

 

 ;明太子フランス;噛めばはらはらと雪の如きが膝に降り積む

 

という歌が収められています。(「明太子フランス」とは、明太子を載せて焼いたフランスパンで、食べるとはらはらと粉がこぼれます。)これを読んだ小田原は言いました。「雪の如きが降り摘むのでなく、明太子フランスが雪となって降り積むところに詩があるんだ」と。私はこのとき、本当にハッとしました。そして、これが直喩と隠喩ということなのだ、と得心したのです。もちろん「ごとし」や「ように」を用いた名歌はたくさんありますし、古今東西の歌人が、「ごとし」や「ように」を使っています。直喩でしか表現できないこともありましょう。しかし、安易に直喩に走るのでなく、一度立ち止まって、他の表現方法はないのかと、検証するのは大事なことだと思うのです。また、「ごとし」「ように」の替わりに、「~に似て」「~の気配」などの言葉を(考えればもっといくらでもありますが)用いるのも、一つの手段です。

 

 

其之三

口ずさむことについて

小田原漂情に私の短歌を読んでもらうとき、

小田原は必ず作品を口ずさんでいます。

また、最近当ブログ「お茶のひととき」を書いていてわかったことなのですが、

『短歌人』の大先輩、蒔田さくら子氏も、

短歌は必ず口ずさむそうです。

これは、歌の音韻のしらべを確かめる際、非常に重要なことです。

かくいう私は、実はほとんど短歌を口ずさんでいませんでした。

この重要性は、最近になってやっと自覚したことなのです。

 

 

たとえば

 

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば  

 

この有名な大伴家持の歌など、口ずさむ=口誦、音読することではじめて、三句の六音「ひばりあがり」に対し、結句の「ひとりし思へば」を「ひとりしもえば」の定型七音で読むか、「ひとりしおもへば」の字余り八音の方が好適か、その「読み」の問題が見えてくる、と、小田原は指摘しています。

 

また、永井陽子氏の歌集『樟の木のうた』に収録されている、

 

べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊

 

という歌は、「べし」の活用を巧みに用い、鼓笛隊の音楽を表現しているのですが、口に載せてみると、その魅力が一層高まります。上句における助動詞「べし」の活用の面白さだけでなく、「すずかけ並木」の「か」「け」「き」、「鼓笛隊の「こ」と「き」の、「べく」からつらなるカ行音(さらに言えば「こてきたい」の「て」と「た」も)が生み出す音韻の巧みさが、声に出すことではじめて実感されるのです。

これらの例からも分かるように、短歌は「歌」と表記されるように、音韻・リズムが非常に大事です。私ももっと、音韻に気を配らなければ、と反省することしきりです。

 


其之二

完了の助動詞「つ」と「ぬ」の違い

完了の助動詞「ぬ」は、初期のころからはっきりとは自覚のないままに使っていました。同じく、完了の助動詞「つ」と、使い分けられるようになったのは、作歌を始めてかなり経ってからです。

他の歌人の歌集や、小田原の手ほどきにより理解した、「ぬ」と「つ」の違いはこうです。

「ぬ」と「つ」は、文法書や古語辞典などで、はっきりその違いを述べているものは、小田原もまだ見たことがないといいます。ただ、歌壇(歌会での批評や、いにしえからの多くの作品のあらわすところ)では、「つ」の方が、強く「切れる」意を持つのだと、言われています。つまり、「ぬ」よりも「つ」の方が、強いイメージがある、ということです。語感として、やわらかいナ行音の「ぬ」よりも、破裂音を含む「つ」の方が強いためか、あるいは口語の「た」と音が似ているからか、などの推察も出来ます。

作歌をしていて、「ぬ」と「つ」が(独断ではあれ)使い分けられた、と感じた時は、あるカタルシスが生まれます。(どんな文法にしてもそうでしょうが。) 因みに、「つ」に関しては、赤面の思い出があります。前回も述べましたが、結社『短歌人』の歌会のとき、知らないとは恐ろしいことに、当時、『短歌人』を引っ張っていらした蒔田さくら子さんに、「『つ』と『つつ』は違うのですか?」と質問してしまったのです。もちろん、蒔田氏は丁寧に教えてくださいましたが、今思い出しても顔から火が出るようです。

しかし、これには言い訳があるのです。「つ」は、完了の意、以外に、「動作や作法を並立する意」つまり、「~したり、~したり」の意があります(必ず「~つ、~つ」と用いる)。そこで、「つつ」と混同してしまったと思うのです。もちろん、当時は「つ」に「並立」の用法があるなど、明確に意識していた訳ではありませんが、どこかで何となく聞きかじっていたのでしょう。

なんだか、このコラムを書いていると、自分の恥ばかり晒すようですが、自身の文法の再確認にもなりますし、当分続けていきたいと思います。

其之一

漢字と平仮名の使い分け

 

当初、私が混乱したのが、一首の中で、どの字を漢字に、どの字を平仮名にすればいいかがさっぱり分からなかったことです。漢字が重なって見苦しくなってしまったり、平仮名をどこに配置すればいいか悩んだり・・。当時、先輩歌人だった小田原漂情に、「どうすれば使い分けできるようになるの?」と聞いたことがありました。しかし、「個人の感性だからなあ・・・」と、明確な答えは返ってきませんでした。そして、19年近く短歌を詠んできて、自在に、とは言いませんが、なんとか自由に使い分けができるようになり、小田原が「ここはこっちの方がいいのでは?」と言っても、「いや、この字で行きたい」と自己主張できるようになりました。その秘訣。それはもう、数をこなして詠むしかない、の一語に尽きるのです。ある日、本当にある日、「分かった~!」と得心する日が来るのです。確かな答えを期待されていた方はがっかりなさったかもしれませんが、この「ある日」は本当に来ます。それを信じてひたすら詠み続けて下さい。

ひとつアドバイスできるとすれば、漢字の重なりには注意されたほうがいいでしょう。漢字が重なってしまうと思ったら、次に来る語句を平仮名に出来ないか、工夫してみる。しかし、すべて平仮名表記で有名な歌人、会津八一氏もおられますし、この限りではありません。また、意図的に漢字を畳みかけて使う手法もあります。さきほどの例は、本当に初めて短歌に向き合う方へのアドバイスとしてお考えください。