お茶のひととき 18

灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ

 

                       中城ふみ子

 

                           『乳房喪失

 

最初に背景を述べると、中城ふみ子氏は昭和29年「短歌研究」第一回50首詠に一位で入選し、あたらしい女歌の出現として華々しく歌壇に登場。しかし、昭和27年乳癌発病、手術。昭和29年再発、転移した肺癌による気道閉塞のため31歳の若さで死去した。

乳癌発病、手術(昔の事でもあるし、歌集名にもあるように、乳房を切除する術法であったろう)、再発、と、若い中城氏にとってはキリストが負った十字架にも等しい、重い現実であった。

そんな中でのこの歌。

 

己を灼きつくすような激しく熱い口づけでさえも、陶然と目を瞑ることはできない。そこに、限りあるこの身で、愛する人をこの目に焼き付けておきたい、という想いがひしひしと感じられる。また、もうひとつには、作者のなかでは目を瞑ることイコール「死」を想起するものではなかったか。それゆえ目を瞑り口づけをすることを畏れたのではないか。

そして、そんな己を「かなしみ給へ」とどこか客観的に遠くからみているような、作者の視線が痛い。

 

乳癌で亡くなった歌人の先輩や知り合いがおられる。また、私事だが、私は子を生していないし、52歳という年齢からも、乳癌リスクが非常に高いと言っていいだろう。だから、数ある癌のなかでも、乳癌をもっとも恐れる。また、乳房とは、女性にとって「女そのもの」と捉えられるかもしれない。毎年のマンモグラフィーの検査は戦々恐々、結果がでるまでは母にもらったお守りを握りしめる。今年も、幸いなことに無事クリアーしたが、中城ふみ子氏も、もし現代に生を受けておられたら、マンモグラフィーをはじめとする各種検査で乳癌を早期発見でき、命を落とさずに済んだかもしれない。いま、さいわい癌にはかかっていない幸運を噛みしめ、斃れていった先人の命を受け継ぐように、短歌に精進したいとつよく思う。(綾乃)