お茶のひととき 15

 かなしみをかなしみとして嚥(の)むごとく冬夜ねむればわれあたたかし

 

                                       坪野哲久

 

                                  『一樹』(昭和22年)

 

かなしみを、かなしみとしてまるごと肯い、嚥みくだすように冬の夜にねむれば、そのかなしみが「われ」をあたたかい感覚で浸す・・・。

 

この坪野哲久氏の言う「かなしみ」とは一体どこから来るのか。歌集「百花」(昭和14年)では、

 

 牡丹雪ふりいでしかば母のいのち絶えなむとして燃えつぎにけり

 

と、母の死に立ち会って「かなしみ」を迸らせている。また、坪野氏は、プロレタリア短歌運動に身を投じ、活躍したという。しかし、第一歌集『九月一日』(昭和5年)は発禁処分となる。貫徹しえなかったであろうプロレタリア短歌運動、そして出口のない戦争へ突入して行った国に対する無力感と、敗戦など、こもごもやりきれない「かなしみ」、また母の死に際しての「かなしみ」、いや、生きとし生けるものの負う「かなしみ」すべてを嚥んで、坪野氏はねむるのだ。それを「あたたかい」と言う。坪野氏の力強く、限りなく大きな命の器を見る思いだ。

 

外はいま、如月の夜の木枯らしが吹きすさんでいる。こんな夜はかなしいことを想う。先日伯母が亡くなった。妹である母はガックリとして、すっかり落ち込み、次は自分の番と思い決めている。齢八十三。母が逝くのはそう遠くないのかもしれない。でも、寒い夜だけはやめてほしい。あんまり寂しいから。それとも私は冬夜、母のぬくもりを思い出しながら、かなしみを肯って、「あたたかい」と思えるだろうか。かなしい。(綾乃)