鹿たちも若草の上(へ)にねむるゆゑおやすみ阿修羅おやすみ迦楼羅
永井陽子
『てまり唄』~「おやすみ、阿修羅」
この歌は次の歌と対で考えたい。
月の夜に雄鹿はねむり境内を歩く阿修羅の板金剛(サンダル)のおと
同 ~「阿修羅のサンダル」
「迦楼羅・五部淨・畢婆迦羅・阿修羅は、ともに奈良興福寺の八部衆(脱活乾漆像)。阿修羅は三面六臂。迦楼羅像の左手首は喪失、五部淨像は頭部と胸の一部しか残っていない。」
と、「阿修羅のサンダル」末尾に注記が記されている。そして、あとがきには、「さびしくなると、時々、奈良興福寺にいるあの少年のような阿修羅像を思い出し」とある。
「さびしくなると」とは、二十年近く、老いた母と暮らし、看取り、旅立っても母の気配を感じながら暮らした作者の、掛け値のないさびしさであろう。そのことを踏まえてこの歌を読むと、
鹿たちは母のこととも取れよう。
鹿たち(母)が若草の上で眠っているとき、阿修羅よ、迦楼羅よ、おまえたちもそっとして眠っておくれ・・・という娘である作者の優しい、しかし哀切な歌であると解釈できるのではないか。また、長い介護の間には、母の存在が阿修羅や迦楼羅に思えたときもあったかもしれない。
永井陽子氏は、溢れる才能を惜しまれながら五十歳に届かぬ若さで世を去られた。短歌人の編集委員を務められ、名古屋歌会では会を牽引し、一時期名古屋に転勤していた小田原も、ずいぶんお世話になり、時には歌会で厳しいご批評をいただいたという。私は直接お会いしたことはないのだが、『てまり唄』といううつくしい言葉で編まれた瀟洒な歌集を拝読し、憧れに近いものを感じ続けていた。「美し言の葉」で是非ご紹介させていただきたいと思っていた歌人であり、またこの一首である。(綾)
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