お茶のひととき 13

さやさやと父母(ちちはは)老いぬ わたくしは風の族(やから)を落ちゆく椿

 

                               道浦母都子~『風の婚』

 

「さやさやと父母老いぬ」には、きちんと生きてきてきちんと老いた、というイメージを持つ。

その父母とは異なり、自由奔放な「風の族」である作者は、首からガクリと花が落ちる、椿のように老いを迎えるという予感がある・・・。「風の族を落ちゆく椿」の比喩が、作者の力技を感じさせる。平成三年のこの歌集『風の婚』には、子を生さなかったことへの回顧のようなものがみてとれる。

 

父母(ちちはは)の血をわたくしで閉ざすこといつかわたしが水となること

 

産むことを知らぬ乳房ぞ吐魯番(トルファン)の絹に包(くる)めばみずみずとせり

 

上記の二首もその一連と考えてよいだろう。この二首は掲出するにとどめる。

 

短歌を読んで批評なりを書くとき、考えてしまうことがある。短歌とは多くの時代時代に、その時を生き、闘い、あるいは力尽きた先人たちのこころや生き方をまざまざと伝えるものである。私は安保闘争で闘い、あるいは斃れていった世代の短歌をどう捉えていいか、ということに、自身大きな課題を負っているような感覚がある。私も幼少時に、記憶はないが生を共にしていた先輩歌人の闘いざまがあらわれた歌を今読むとき、不用意なことは書けないという危機感を抱く。だがリアルタイムで闘争を経験したわけでもなく、当時の社会情勢に対する不勉強とも相まって、結局とおりいっぺんのことしか書けないで終わってしまっている自省がある。これは私への重い、巨大な宿題だ。(綾)