<芽吹く言の葉>~短歌をともに志す方々の集いのページです

<芽吹く言の葉>・・・<美し言の葉>の添削コーナーにご参加下さった方々の作品を中心とする、あたらしく短歌の道を志す方たちのページです。また、すでに長く短歌を詠まれている方々も、発表の場、切磋琢磨の場として、このコーナーをご利用下さい。

        

2017.7.3                                          作者:佐東亜阿介

・おつかいの頃から五十年行った酒屋が昨日見たらコンビニ

(NHK短歌兼題「コンビニ」2016年10月募集)

 

この一首は、おそらく作者の思いの中で、「おつかい」に対する思い入れが、もっとも強かったのではないでしょうか。「おつかい」、すなわち小学校低・中学年くらいに、日常の当たり前の務めとして、五十年も前から通いなれた酒屋さん、それがある日ふと気がつくと、コンビニに変わり果ててしまっていた、そのお気持ちは、非常によくわかります。

 

批評・添削にうつりますと、下句の「酒屋が昨日見たらコンビニ」に関しては、いま少し練り上げる必要があると思われます。たまたま先日、塾の生徒に俳句と川柳を双方書かせる機会がありました。私は俳句の実作こそ、短歌と並行してわずかに試みたものの、川柳に関してはほとんど評語を持ち合わせておりません。「俳句」と「短歌」の相違については、それぞれの実作(俳句はごくわずかですが)と鑑賞、批評、添削等をつづけて来て、一つ言えることは、俳句が十七音で余分なことの一切を切り捨てて対象に肉薄するのに対し、短歌は七七の分だけ「思い」を盛る余地があり、それゆえその余地が冗語とならぬよう、短歌でなければ盛り込めないものを盛るところに、命がある、という特性があります。

 

前段のことをお伝えした上で、あえて申し上げるのですが、原歌の「酒屋が昨日見たらコンビニ」は、やはり川柳的と言えるのではないでしょうか。

 

小池光さんが言われたのだったかと思いますが、以前、「川柳に七七をつければ短歌になる」という言葉を聞いたことを、ずっと覚えています。「俳句の俳句らしさ」は、「短歌の短歌らしさ」ではなく、短歌のそれはむしろ川柳と同質のものと、考えることができるかも知れません。いずれが正しいか(まして「高尚」か)などということ)でなく、それぞれの志すところ、また言葉運びのありようという面などで、三者にはもとより大きな違いがあるのだということを、ここでは申し上げておきたいと思います。

 

そんな意味で、「酒屋が昨日見たらコンビニ」は、一般論として「川柳的」ではないかと申し上げた次第です。

 

さて、短歌としての添削ですが、「おつかい」は、読者に読みとってもらってもよいと考えます。作者を知る読者の、一連のまとまった認識の中では、この作者が「半世紀」通ったのなら、はじめは「おつかい」だったのかな、と読んでもらうこともできるだろう、ということです。その意味で、「おつかい」を必ず一首の中に盛り込まずとも、背景を読みとってもらうことはできるでしょう。

 

さらに、「読者本意」で、「おつかいの頃」ではなく、自分が飲むために買いに行き出した頃から五十年、と読むとするなら、作者二十歳の頃から半世紀も!ということで、歌の幅がひろがるのです。以上を総合しまして、以下の添削案を提示させていただきます。「五十年」は、添削案では「半世紀」の方が音韻の面で良いと考え、作ってみました。

 

昨日(きぞ)見ればコンビニとなり果てており半世紀通いなれし酒屋が

 

 

・衰える事など無いと信じてた眼も足腰も脳も裏切る(NHK短歌兼題「老い」)

 

 私も先日、今年三度目の風邪を引いてしまい、五十をはさんで丸三年くらい、風邪を引かないときもあったのに、など思っていました。物忘れはしょっちゅうです。お気持ちは、非常によくわかります。

 添削としては、三句の「信じてた」を、まず改めるべきと考えます。また、アクセントや屈折を持たせるために、上下を入れ換え、結句で「裏切られた」感覚を出してみました。四句については、いろいろ動かせると思いますが、一応二案をお示しします。

 

足腰も眼もまた脳も衰えぬ若きままぞと信じてありしに

足腰も眼もまた脳も衰えぬ常に不変と信じてありしに

 

 

出港の連絡船にいたあの日銅鑼叩く音と蛍の光(NHK短歌「光」)

 

題詠は(歌会始も含めて)「光」という一字を詠みこめば良いとは言うのですが、この場合詠むべきは「目に映る『光』」であり、一方原歌では、『蛍の光』という楽曲名になっている点で、少々弱さがあるのではないでしょうか。むろん、「光」そのものでなく、「光輝」「栄光」等々の熟語は問題なく、また蛍の光に「その光で書を読み、学んだ故事」はあるにせよ、『蛍の光』は楽曲のタイトルという固有名詞ですから、作品として「光」を詠んだとは受け取りにくいです。

青函連絡船では、出港の時に『蛍の光』がかかるならいがあったのでしょうか?私自身は連絡船時代に北海道へ渡る機会がなかったため、この点不明です。もしそうであるなら、固有の情景を描写したものとして、歌意は受けとめられるでしょう。

ただ、作品だけを読むと、情景は夏、船上にたまたま蛍がいた(携行していた)というよりは、「大晦日」のような印象を強く受けます(私が「紅白」の藤山一郎先生の指揮のイメージをいまだに強く有しているためかも知れませんが)。

また、事実関係よりも重要なのは短歌作品としての味わいですから、その意味で、一首の独立性を求めて添削を試みたいと思います。

  

銅鑼烈し蛍の光も鳴り添いて連絡船は北へ出でゆく

 

 

 

2017.6.24                                           作者:中溝幸夫

    朝まだき昏き谷から空見上げ星々の中にあの星をさがす

 

とても魅力的な情景です。おそらく夜明け前の「昏き谷」から空を見上げる作者が、ま

だうすれることのない満点の星々の中に、一等星の名を持つのか、あるいは何か特別な思いのある星を、さがしておられるのでしょう。もしかすると、空気のきれいな山(谷)から見る星空は、星が多すぎて、いわゆる星座などの既知の形の通りには見えないのだろうか、などと、想像が広がります。

 

歌としては、字余りのさばき方に工夫が必要でしょうか。以前、何が何でも五・七・五・七・七の定型におさめるばかりでなく、時にはそれを壊して破調(字余り)に挑戦することも必要だ、と述べました。ずっと挑戦して下さっていることは、率直に言って嬉しいのですが、字余りは「音韻」との関係で、場所と用語によってうまく行く場合とそうでない場合とが、はっきり分かれます。そのことを詳しくお話しする前に、まずは添削案をお示ししたいと思います。

 

あの星はいづこにあらむ朝まだき満天の星を谷より見上ぐ

 

原歌の下句は、残念ながら最後が間延びしてしまうような弱さがあります。四句、五句

ともに字余りであることも、その一因でしょう。また、情景から行動までがストレートすぎるので、よけいに字余りが気になる結果になってしまっています。

 そこで、「あの星はいづこにあらむ」と二句切れにすることで、一度読者の視点を天空に引きつけます。その上で情景を描写し、それを見上げる作者というところへ視線を引き下ろすことで、遠→近または巨→微という構成を、盛り込みました。なお「昏き」谷、はおっしゃりたいところと思いましたが、「朝まだき」に「満天の星」を見ることから、意は通ると考え、割愛しました。

なお、字余りについては三首目のあとにお話し致します。

 

 

 ②  うす紅のミヤマキリシマ花もよう淡きから濃きへ山染まりゆく

 

これも①で申した通り、字余りをどこに置くか、そのため前後の言葉運びをどうするか、

という点に、鍵となるものがありそうです。とくにミヤマキリシマが「山を染めゆく」とした方が、焦点が絞りやすいと思われます。四句と五句を入れ換え、かつ四句のあとを一字アケとすることで、字余りを「生かす」ことができそうです。

 

  うす紅のミヤマキリシマ花もよう山を染めゆく 淡きから濃きへ

 

  なお、「音韻」のすわりからすると「濃きから淡きへ」の方が良いのですが、それでは歌意が大きく損なわれるため、「淡きから濃きへ」は原形のままとしました。「濃きから淡きへ」なら一字アケは不要ですが、「淡きから濃きへ」の場合は一字アケですべてが生きる点、字余りと「音韻」の関係として、比較してみて下さい。

 

 

③ 国東の山懐に抱かれし熊野摩崖の仏を訪ふて

 

熊野の磨崖仏は、まだ行ったことがありませんが、あこがれの地、石仏であり、一度は

訪ねてみたいと思っております。ヒマラヤをはじめ、各地の題材を詠みこんで私どもに見せて下さる作者の作品を拝見するのが楽しみです。

  さて、添削・批評に入ります。原歌は2か所、改めた方が良いかと思われるところがあります。いずれも下句で、「熊野磨崖の仏」の固有名詞と、「訪ふて」のおさめ方です。

  固有名詞に関しては、作者が書かれているのですから、このような言い方もありうるのかと考えましたが、Webなど手もとで確認できる限りでは(ずっと以前からの私の固有の知識も含め)、「熊野磨崖仏」と言うのが通称のようであり、「の」を差しはさむとすれば、「熊野の磨崖仏」が妥当なところではないでしょうか。

  これは「熊野磨崖の仏(この場合は、ほとけ、と読む意と受け取っています)」という言い方が存立するか否かではなく、作品を読んだ読者が違和感なく受け入れ、歌全体をどのように評価するか、という点からの指摘です。

  また「訪ふて」という末尾ですが、「・・・て」と接続助詞の「て」で終える詠み方は、印象が散漫になり、余韻・余剰を生むのでなく、焦点の絞り切れない、弱い読後感を生じさせてしまいます(大半の作品がこのように評価され、大半の批評者が同様に指摘します)。

せっかく「訪ふ(とふ)」という古語を用いておられますから、ここはもう一歩「訪ふ(おとなふ)」まで、すすめてみてはいかがでしょう。そうすることで、「て」は不要となり、終止形でぴたりとおさめられるようになります。

 

国東の山懐に抱かれし熊野の摩崖仏を訪(おとな)ふ

 

補足してご説明しますが、ここでは句割れ・句またがりという手法を用いています。下句が「くまのの/まがいぶつを/おとなふ」という四音・六音・四音の組み合わせになっています。これも音韻、言葉運びによって良しあしが分かれるため、簡単ではない破調の一種ですが、字余りと合わせ、うまく使うと表現の幅がぐっと広がります。

 

また、字余りについて、改めてお話し致します。以前にも引いた自作を例にして恐縮ですが、ちょうど使いやすいのでご容赦下さい。

 

かつてわれのすべてが在りし駅の跡にしろじろとアメリカ花みづき咲く

 

初句は「かつて・われの」と三音・三音になっています。言葉にもよりますが、初句 

 の三・三または五・一は、落ち着きやすいです。「かつて」の「つ」は、会話などでは「かって」と言われることもあり、半拍に近い感触があります。「五拍半」に近いと言えます。

  三句はやはり「駅の・跡に」と、三・三にしています。こちらは六拍ですが、初句と呼応させていること、二句が流れの良い四・三であることから、つり合うものとして制作しました。

  下句がより大きな破調です。四句が九音の字余りか、しかし「アメリカ花みづき」は一語ですから、「句割れ・句またがり」であるとも言えます。じつはこの破調を吸収するために、上句をあえて先述した通りのつり合いの破調にしているのであり、「アメリカハナミズキ」という固有名詞の語調とも相俟って、全体のバランスが取れているようです。

 

  「初句」につづいて言うと、三句の六音も、わりとおさまりやすいものです。ただこの場合も、三・三や五・一がよさそうだと、経験的には言えます。また促音「っ」(旧かな表記では「つ」)、撥音「ん」は、一拍ではなく半拍なので、文字の上では六音、八音でも、五拍半、七拍半となり、一般的におさまりやすくなります。

  またなぜか、外来語カタカナ表記の言葉にも、字余りを気にさせないものが多くあるように思います。こちらはあまりつきつめて研究していませんが、たとえば「like」は「ら・い・く」という三拍ではないということなどが、関係しているかも知れません。

 

  以上、最後は字余りと句割れ・句またがりについて、ご参考までにお話ししました。今後のお役に立てば幸いです。

 

 

2017.5.9                                             作者:佐東亜阿介

・好物を隠そうと犬土を掘るいくらも掘れぬ前足の爪(NHK短歌兼題「隠す」)

 

 原歌には、二ヶ所、惜しいところがあります。一つは「いぬつちをほる」と、主語の「犬」と目的語の「土」が連続している点、二つめは、それが漢字で続いている点です。そこを解決すれば、生き物への愛情の感じられる、良い歌になるでしょう。

 

 以下、問題点を解決しながら、順に添削案をお示しします。

 

 好物を隠そうと犬は土を掘るいくらも掘れぬ前足の爪

  まず、助詞「は」を挿入することで、問題を解決しました。ただし、いま少しひねり  

  がほしいところです。そこで、次の案を考えました。

                 ↓

好物を隠そうと犬は土掘れどいくらも掘れぬ前足の爪

「掘れど」と、逆接を加えてみました。因果関係は明確になりますが、今度はやや説

明的で、原歌の持ち味を殺しそうです。

               ↓

好物を隠そうと土を掘る犬のいくらも掘れぬ前足の爪

 これで、二句は字余りになりますが、説明的な作為がなく、原歌の持ち味通り、犬の  

 爪への嘱目で、愛情を秘めた歌になると考えます。いかがでしょうか。

 

 

初物と言っておほほと笑う母つい先日も食べたばかりを(NHK短歌兼題「初」)

 

 「を」は接続助詞であることが多いのですが、逆接的な意を持つ終助詞でもあります(この場合、「食べたばかり」なのに、の意です)。原歌では、そのように「を」が受けとめられます。

 もしそうでない(「ばかり」のあとに何か名詞が省略されている)ならば、次のような添削が妥当です。

 

初物と言っておほほと笑う母つい先日も食べた林檎を

 

 また、逆接なのだとしても、何か「食べた」ものを示す固有名詞が詠みこまれている方が、読者も理解しやすいでしょう。

 

 

上京の独り居に母訪ね来る片付けられし部屋の広さよ(NHK短歌「部屋」)

 

原歌のままで、「『母が来て部屋を片付けてくれたら、部屋が広く感じられた』という意」は、読みとれない訳ではありません。が、一首目、二首目と同じように、ほんのわずかな言葉選びで、大きく印象が変わります。

 

また、歌材はできるだけ整理して、歌意の骨子を伝えられる助動詞、助詞の一音、二音のために、一首のキャパシティを振り向けることが重要です。

 

この作品では、「上京」が、作者の気持ちとしては非常に大きな意味を持つものと読みとれるのですが、「歌の完成度、あらわすところ」として考えれば、それを省いても同じ意をこめることはできると考えられます。

 

独り居の部屋の広さよ留守の間に母たずね来て掃除せしあと

(結句は、「片付けしあと」ともできます)

独り居の部屋の広さよ留守の間に母たずね来て片付けしあと

 

 「上京の独り居」という背景は、ある程度読む力のある読者であれば、「ああ、作者は都会に独りで出てきて、お母さんが部屋を掃除してくれたんだな」と、読むものです。添削案では「留守の間」としましたが、読み方の構造だけ受けとめていただければ、推敲していただければ良いと思います。

 

 

 

          

2017.3.31                                               作者:佐東亜阿介

司会者の笑顔が映るその前は本番ですの緊張の声(NHK短歌兼題「本」)

 

 日ごろ、それほどよく見かけるシーンではありませんが、誰しも一度や二度は見たことのあるような気のする、ちょっとなつかしい情景です。「司会者の笑顔が映る」わけですから、スタジオではなく、TVの画面(映像)なのだと思われます。具体的にはどのような場面なのでしょうか。

 

 この「具体的な場面」が、読者にあってどのような印象を結ぶのかが、この短歌作品の評価の分かれ目でしょう。読者によっては、大いに共感することもあるでしょうし、逆にさしたる感懐を覚えぬということも、ありそうです。これは、受け手の感じ方の問題によるところが大きいと思いますが、ある程度、作品の側の「仕掛け」、あるいは手練手管(てれんてくだ)で、回避することもできそうです。

 

 あとで少しお話ししますが、「手練手管」と申した通り、それは「技」で目先の批評・批判をかわす、そのたぐいの話であり、作品に大きな疵(きず)があるわけではありません。作者が作品をお寄せ下さるようになった頃に一、二度、五・七・五・七・七にまとめるだけでは「短歌」としての魅力は生まれない、という意味のことをお話ししたと思いますが、その当時と比較すると、格段の進歩が感じられ、この作品は十分「短歌」の味わいを有しています。

 

 「手練手管」について、一応申し添えます。「司会者の」の初句に、だれか固有名詞を盛りこめばいいのです。たとえば字余りですが、「池上氏の」など。もちろんお好きな人の名でかまいません。こうすることで、アクセントが生まれます。ただしあくまで「手練手管」であると同時に、かえってあざとい印象になるかも知れませんので、一応ご参考までに、お話しするのみと致します。添削も、必要ないと思います。

 

 なお、私自身が「本番前です」の言葉からなつかしく思い返したのは、1991年だったと思いますが、NHKが制作した『幾多の丘を越えて 藤山一郎八十歳 青春の丘を越えて』です。今もって私の敬愛する藤山一郎先生が、本番収録前にスタッフとお話しになっている様子が、手もとのビデオテープに残されています。当時私はビデオデッキを持っていなかったのですが、この放送のために急遽、一式買いととのえました。古い、なつかしい思い出を呼び覚まして下さり、ありがとうございました。

 

 

躓かず陛下お守りせんがため和服召される皇后陛下(NHK短歌兼題「つまずく」)

 

 一首の歌としてはよくまとまっていますが、「評価」には、難しいものがあります。おそらくは、皇后陛下が和服をお召しになる理由として、このようなことをお話しになった記事などが、ベースになっているのだとは思いますが・・・。皇后陛下おん自らもわずらわれて久しく、「内容的に」、読者がすっと受け入れることのできない感じのあることが、第一かと思います。

 さらに、文法的にかみ砕くと、三句の「せんがため」に、より大きな問題がありそうです。このままの書き方では、「・・・せんがため」という意志をお持ちの方のお心を、作者が同じ立場で代弁しているような印象を、読者が受けるのではないでしょうか。

 最初に書いた通り、皇后陛下のお言葉をふまえての一首であるとするなら、「『・・・・・』と」、または「『・・・・・』とて」、のような、引用の助詞が必要です。それならば、先述したような違和感を覚えることはないかと思います。ただその場合、とくに「とて」などでは、皇后陛下に対しもっと失礼な印象が生まれてしまいかねず、さらに難しいところです。

 

 このあたりが、「評価は難しい」と申し上げたゆえんです。また、私自身は今上陛下、皇后陛下を深くお慕い申し上げる立場から、以上の見解をお伝えして来ましたが、現代文学、現代短歌として(あるいは万葉、古今の昔においても)、「陛下」と直接詠みこむことが適切であるかどうかにつきましても、一考の余地があろうかと思います。

 

 作者が皇后陛下をお詠みになったご心情は、私も深く受けとめ、共感を覚えました。上記は「短歌作品の評価」としての見解です。一応、「引用」の体裁を盛りこんだ添削案を、お示しします。「せん」にあわせて「召さるる」としました。

 

 躓かず陛下お守りせんためと和服召さるる皇后陛下

 

 

別れるといつも言いつつ添い遂げた子には解らぬ妣の情愛(NHK短歌「別れる」)

 

 大変味わいのある作品です。「別れる」と言い続けながら、最後まで添い遂げられたお母様の「情愛」は、ある時は子どもたちに向けるものの割合が大きかったかも知れませんが、やはり「添い遂げる」までには、お父様への深い思いが、お有りだったのでしょう。たしかにそれは、「子には解らぬ」ものであると思います。

 短歌作品の完成度として、言葉の入れ替えを要する部分はありません。この一首の志すところとしては、これで正解、と言ってもいいように思われます。

ただ、ひとつ気になるところは、「妣(はは)」という用字が、どこまで一般読者に伝わるだろうか、という点です。歌壇では、池田はるみという歌人が、『妣の国 大阪』という歌集を刊行し、ながらみ短歌賞(1998年)を受賞したので、わりとなじみのある漢字です。また漢和辞典をひもとけば、他界した「はは」=「妣」、在世の「はは」=「母」という使い分けも、すぐにわかるでしょう。

しかし「多くの読者」は、そこまでしてくれないのが普通です。そのため「妣」の読みにくさから、すっと読み過ごされる、さらには誤読されかねない、という疑念が、頭をよぎります。NHK短歌の選者、もしくは下読み担当は?とも、思ってしまいます(余談ですみません。もし選外だったのなら、可能性があるかと思ってしまいました。それぐらい、この作品は一首の短歌として、よく詠まれています。ただし、一首の眼目をどこに置くか、あるいは屈折などを用いて訴求点をどこに絞りこむか、という点で、さらなる向上の余地がないわけではありません。しかし私は、この一首を高く評価する立場です)。

以上を総合して、結論をお伝えします。私ども「芽吹く言の葉」「美し言の葉」のWeb表記では、ルビがカッコ書きになってしまい、申し訳ない限りなのですが、それでも「妣」には、「はは」のルビを添えるのが、適切だろうと考えます。

 

 

別れるといつも言いつつ添い遂げた子には解らぬ妣(はは)の情愛

2016.2.16           作者:中溝幸夫

    ヒマラヤの山村に棲む老いた女(ひと)石運びしがわれの仕事と

 

この歌は、鑑賞、添削を試みる上で、いくつか気になるポイントがあると感じました。

 

.「老いた女(ひと)」はかつて「石を運んだ」のか。今も運んでいるのか。

イ.前にもお伝えしましたが、「女(ひと)」のルビ表記の是非。

ウ.「石運びしがわれの仕事と」に対し「言う」という意味の動詞がないと、すわりが悪い。

 

 ア.については、中溝様の作品ですから間違いはないと思いますが、その点についてもウ.の動詞の有無で、印象が大きく変わります。そして、かつて石を運んだことを、いま口にしているのなら、次の添削案が良いかと思います。

 

ヒマラヤの老女はひそとつぶやきぬ石運びしがわれの仕事と   ※ぬ=完了

 

 また、今も石を運んでいるのなら、次のようになります。

 

ヒマラヤの老女はひそとつぶやけり石運ぶのがわれの仕事と   ※り=存続

 

※完了の「ぬ」、存続の「り」の違いから、過去と現在の違いを込めています。もちろん、「つぶやく」についての完了、存続ですが、語感の伝えるものがありうるという意味です。

 

 イ.について、中溝様のご意志としては、二首目に「老女」があることと、「石を運んだ(運んでいる)老女」に対しての思いから、「老いた女(ひと)」と書かれたのだとは、推察しております。しかしながら、書かれている「言葉」から、読者がどのようなイメージを受けとるか、そこのところに、作者は最大限の意を払うべきだということが、歌人として、また「美し言の葉」・「芽吹く言の葉」運営者として、私の申し上げるべきところと考えます。

 

 むろんその上でなお、「老いた女(ひと)」という表現を用いたいという作者の意志を否定することは、私どもの姿勢としてはありません。あくまでも、ご自身がお書きになった言葉が、読者にどのように受けとられるか、そしてその段階で作者ご自身の真意がどのように読者に手渡されるか、そのことをお考えいただく助言として、この添削と批評をお送りしている次第です。

 

 前回の大河=ガンジス川のことなども、私自身は「はるかな山の高みの源流から、インド洋へと流れて行く、世界有数の大河に数えられるガンジス川」の意を読みとりましたが、山の情景をイメージしている一般の読者に、「大河」の語を一首の中であわせて提示することは、誤解・誤読をまねく危険がある、という懸念から、ご指摘したものです。あらためて、ご参考になれば幸いです。

 

    食べた店の老女は別れ際マリーゴールドの花手渡しぬ

 

この歌も前作同様に2点、まず指摘を致します。。

 

.「食べた店」では、もちろん意味は伝わるが、表現としては疑義が大きい。字足らずも解消したい。

イ.やはり助詞を整えるべき。マリーゴールドの花「を」手渡す、とした方が良い。

 

 以上の理由から、以下の添削案をお示し致します。初句は「食事せし」がもっともシンプルと思われますし、「花」を省くことで、手渡して「くれ」た意も、込めることができます。

 

食事せし店の老女は別れ際マリーゴールドを手渡しくれぬ

 

 

    雲が湧き霧が流れてランタンの谷埋め尽くし白き峰消ゆ

 

私などには想像もつきかねますが、あるタイミングでとつぜんヒマラヤの高い空に雲が

湧き立ち、ただちに霧も流れて来て、ランタンの谷を埋め尽くす。そして登山者たちの視界から、みるみるうちに真白き高峰も消えさってしまう、こんな情景でしょうか。

 

 じつは添削が一番難しかった作品なのですが、それは、「雲」と「霧」の動きがはじまったところから、「白き峰」が消えるところまで、切れ間がなく、かつ三句の「ランタン」以外、すべての単語が3音以内であることから、初句から結句まで一気に流れてしまうところに、惜しいものがありました。

 

 添削の結論としては、「初句切れ」にしました。二句以降の助詞や微細な表現に小細工を加えるよりも、この「初句切れ」以外すべてを生かすことで、作者の思いが十分に表現できるのではないかと考えます。変に他の部分に手を加えると、結句の「白き峰消ゆ」を生かすことができません。

 

 

雲湧きぬ霧も流れてランタンの谷埋め尽くし白き峰消ゆ

2016.2.3                                                        作者:佐東亜阿介

野ざらしのみほとけ並ぶ山寺や妻空蝉を撮して登る

 

 魅力のある歌ですが、疑問が一点と、改めたい流れがひとつあります。まず、「疑問」についてご説明します。

 

 それは「空蝉」の語義についてです。「空蝉」は、『広辞苑』第四版によれば、「①蝉の抜け殻。②そこから転じて、蝉そのもの。③魂が抜けた虚脱状態の身。」とあります(一部、小田原が補足修正)。そこで、「空蝉を撮」すとは、どのような情景なのかということが、まず読者の胸にきざしてしまう、これが「疑問」です。

 

 もちろん、改めて読み返せば、「野ざらしのみほとけ並ぶ山寺」で、「妻」が、蝉の抜け殻を撮影して(携帯電話ででしょうか)、さらに上へ登った、というスケッチなのだろうと想定できます。

 

 ただ、「野ざらしのみほとけ」の生み出す印象と、「空蝉」の語が持つ③の感覚が、読者の脳裏で瞬時に結びつく、こうした「言葉の力」も、知っておいていただきたいと思います。

 

 また「流れ」については、二句の後半「並ぶ」をつきつめれば俳句の傑作となりそうな、語調も内容も整った上句に対し、下句は、「妻」と「空蝉を」の間に助詞がなく(漢字が続く点でも忙しい感があります)、さらに「撮して登る」というふうに、結句の中に動詞が二つ盛られている点でも、せわしい、落ち着かない印象を受けてしまいます。

 

 そこで添削案では、「妻」が(抜け殻であろう)「空蝉」を「撮せり」とした動作で完了させ、二句切れとしました。また「流れ」のところで指摘した二つの動作のうち「登る」を省きます。ここでわずかに字数の余裕が生じますが、そこへあえて「秋」を持ちこみ、体言止めにしてみました。

 

 「山寺」が芭蕉の詠んだあの山寺で(私も大好きです)、「空蝉」となれば、季節は晩夏、初秋であると決まっていますが、そのあたりを自明のこととしながら、結句を「秋」とすることで、「山寺」が普通名詞的な「山の寺」でなく、あの「山寺」であると明言できる、そんな効果を考えました。

 

空蝉を妻は撮せり野ざらしのみほとけ並ぶ山寺の秋

 

 

少しだけならいいからと誘う声負けてはならぬダイエットの身

 

 「いいからと誘う」声の主は、やはり奥様でしょうか。「いいから」という語調で、そう感じました。その誘惑(誘う声)に負けてはならないと我慢される作者のお気持ち、一首の「短歌」としても、よくまとまっています。

 

 ただ、原歌のままでは、三句切れであろうとは思われながらも、一首全体がさらりと流れすぎる感が否めません。そこで三句・四句切れとなるリスクを承知の上で、四・五句を入れ替え、さらに四句で「ぞ」(ここで切ります)、結句で「じ」(打消の意志)と、意味としても語感としても強い助詞・助動詞を使いました。

 

 少しだけならいいからと誘う声ダイエットの身ぞ負けてはならじ

 

 

弟の癒えぬ傷痕見る度に後悔募る過ちの過去

 

 過去、弟さんに、何かのはずみで傷を与えてしまった、その傷が、今も弟さんの身体に残っているのでしょうか。「傷」は身体とは限らず、精神に与えることもありうると思いましたが、「癒えぬ傷痕」をいま「見る」のですから、やはり身体的な、何かの「過ち」によるものだったのでしょう。

 

 添削としては、漢字の使い方と、下句(四句・結句)がばらばらになっている点を修正すれば、よい歌になると考えます。

 

 前者(漢字)は、特に二句から四句の「癒えぬ傷痕見る度に後悔募る」の部分が気になりました。ここでは、「度」を「たび」とするだけで、大きく印象が変わります。

 

 また下句は、「後悔募る」で四句切れかと読める後に、「過ちの過去」と、同じ印象の結句が投げ出されるため、寸断された感を受けます(「募る」は「過去」にかかっているようにも読めます)。ここは確実に四句切れとして、倒置法も用い、以下の二案でいかがでしょうか。

 

  弟の癒えぬ傷痕見るたびに募りくるなり消しえぬ悔いが

 

弟の癒えぬ傷痕見るたびにかえり来るなりあの日の悔いが

 

より原意に近い意味では、もう一例、考えられそうです。次の例では、四句ははっきり結句の修飾節となっているため、「切れてしまう」感じがないのです。

 

 

 弟の癒えぬ傷痕見るたびによみがえり来る過ちの過去

2016.12.31            作者:佐東亜阿介         

    サラダだけ食べて減量志す我慢の割に減らぬ体重

 

健康のために減量を志し、しかしなかなか思うようには効果があらわれない。中高年の

読者には、大いに共感できる歌材でしょう。

 以前にもお伝えしたことがあるかと思いますが、「五・七・五・七・七」の短歌のリズムは、日本文学の原型とも言うべき、長い歴史とそれゆえの強い力を持った詩形ですが、だからこそかえって、どの言葉を用いるか、それをどのようにつなげるか、によって、時としてリズムが良すぎて、迫真性がうまく伝わらない(意図は伝わるけれども、逆に伝わりすぎて、「詩」としての感動が、薄れてしまう)ことがあります。

 それをふせぐためには、内容や音韻(しらべ、リズム、語感を総合したもの)で、ところどころに屈折を持たせる、言葉をあえてずらしてやる、ということが求められます。

 

  減量を図りてサラダだけを喰うされどおさおさ減らぬ体重

 

  「おさおさ」は旧かなでは「をさをさ」で、打消しの表現の場合には「少しも」「ほとんど」の意になります。言葉がなじまないと感じられたり、「少しは減っているが、なかなか思うようにいかない」という感じでしたら、ずばり口語で「されどなかなか減らぬ体重」でもいいと思います。

 

 

    自分には何が何だかわからないみんなは読める空気なるもの

 

いわゆる「KY=空気が読めない(読める)」の「空気」のことですね。これは「事実」

と「虚構」の、いずれに近いのでしょうか。作者ご自身のストレートな思いであるのか、ある人物を虚構の主人公にして詠まれたのか。このような「読み」の展開も、先般の掲示板でのやりとりから、ふくらんできましたね。

 そして、「事実」「虚構」のどちらであっても、わずかな言葉の選別で、一首の歌は大きく面影を変え、味わいを変えるものだということを、次の添削でお示しできていればうれしいです。「自分」を「わたし」、「みんなは」を「皆には」と置き換えることで、歌の表情がかなり変わると思います。いかがでしょうか。

 

  わたしには何が何だかわからない皆には読める空気なるもの

 

 

    人間が踏みしめた日もある地面水も空気もない月の海

 

私はいわゆる「趣味」らしいものがなく、強いて言えばコミックを読むことが、それら

しい唯一のものであります。余談ではありますが、先日『ビッグコミック』の『ゴルゴ13』で、アームストロング船長が「月面着陸は嘘だった」という言葉を残したという話を読み、「そのようなフィクションも生み出される時代になったのか」と驚きました(作中で、詐欺、偽造として語られたもので、作品自体がそう断じたものではありません。ご存じでしたら余計な説明で、すみません)。

 さて、一首目でも言いましたが、短歌の五七五七七のリズムは、語調が良いので、作者がはじめに想起した言葉のままでは、「調子が良すぎる」場合があり、そこをどのようにインパクトのある作品にしていくか、ということを、添削を通じてご説明したいと思います。

              

  月のうみ水も空気もなかりしがアポロは行きぬあの日たしかに

(月のうみ水も空気もなかりしがアポロ行きしをわれは忘れず)

 

 月のうみ水も空気もなかりしをかつて彼らは踏みしめにけり

 

  作者の原歌は、「月の地面」の方に焦点があると読めますので、一案よりは二案の方が、より近いかも知れません。俳句にくらべ七七の十四音ぶん多い短歌は、ひとつの素材(「月の海」)に対して、別の素材(一案では「われ」またはその視点。二案では、アポロの搭乗員たちである「彼ら」)を合わせることで、流れや見どころを作ることができる例でもあります。

 

 

 

2016.12.21                                                          作者:中溝幸夫

 

    ヒマラヤの峰と峰とに挟まれて大河は流れやがては海へ

 

 

 まず「疑問」ですが、不勉強ながら「大河」はガンジス川か、それに近い規模の大河川なのでしょうか。そして、その「大河」は、ヒマラヤにおいても「大河の様相を見せているのだろうか」というのが、「疑問」点であります。もちろん日本の川とは異なるのでしょうから、事実そうなのであれば、「それを知らない日本の読者に対する配慮」として、歌における「表現」を、磨いていただければと思います。

 

 そして「言葉運び」については、下句の表現です。「大河は流れ」「やがては」海へ、のままでは、読者の焦点をひきつけるポイントがなく、全体が流れてしまいます。四句切れで一度切り、さらに作者はよくご存じのことであっても、「大河」の行く先がどこであるか不分明な形にした方が、作品としての広がりが生まれると思います。

 

ヒマラヤの峰と峰とに挟まれて大河は流るいづこの海へ

 

 

    ネパールは国貧しけれどヒマラヤのふもとの民の笑顔やさしき

 

ネパールの人々が心豊かに暮らしているようだということは、私も聞き知っており、歌

 意にはうなずけるものがあります。この作品も、一首目と同様の指摘をさせていただきます。

  まず、ネパールは、実際にヒマラヤの高峰に登られる作者にとっては、まさしく「ふもと」なのだと理解できますが、私どもを含め多くの日本の読者にとっては、ネパールの地そのものが、たいへんな「高地」の印象があります。これは「語感」の問題であり、「ふもと」と「ネパール」が、読者の感覚の上で(事実か否かではなく)うまく咀嚼できないのです。この点は、「ふもと」という語を用いないことで、回避できましょう。

  いま一点は、言葉の用い方であり、「国貧しけれど」の二句八音についてです。このくらいの逆説なら、副助詞「も」を使うことで、七音の定型に収めることができます。以下の添削案の通りです。

 

ネパールは国貧しくもヒマラヤに生れたる民の笑顔やさしき

 

 

    ヒマラヤの貧しき村に夜が明けて七千メートルの白き峰聳ゆ

 

この作品は、とてもよく仕上がっていると思います。二点だけ添削しました。まず三句

の「夜が明けて」についてです。格助詞「が」と、係助詞(口語では副助詞)「は」の違いなのですが、格助詞「が」は、通常の「〇○」が「△△」した、という、主語・述語の関係を示します。対して係助詞または副助詞は、「ある特別な意味や感触」を添えるものです。そしてこの歌では、結句の「白き峰聳ゆ」の「峰」と「聳ゆ」の間に「が」が省略されていますから、「夜が明けたために、聳えている白い峰が際立って浮かび上がった」意をあらわす「夜は明けて」を提示した次第です。ただ、微細な感覚のところであり、絶対的にこうでなければいけない、というものではありません。また、下句の字余りを吸収するために、「は」の強さが生きる面もあります。

 いま一つは、二句の「貧しき」を「乏しき」とした点です。ヒマラヤの歌では多く「貧し(き)」と書かれていますから、やはりそれがご実感なのだろうと受けとめておりますが、すこし言葉づかいをやわらげることで、歌に「含み」が出ることの例として、お示しするものです。

 

 

ヒマラヤの乏しき村に夜は明けて七千メートルの白き峰聳ゆ

 

 

 

2016.12                                                                    作者:佐東亜阿介

・感情のまま子を叱る吾を目でたしなめるごと見詰める吾が子

 

  歌意はとても良いと思います。作者は感情にまかせてお子さんを叱り、お子さんがそ

れを見抜いたかのごとく、たしなめるように見詰めてくる。どきりとする中で、親子のありようや、お子さんへの愛情の再確認を求められた、そんな一コマでしょうか。

  表現の上では、すこし整理が必要です。

  まず、上句は「子の視点」ですから、「父われを」とします。いっぽう、下句は「吾(父)

の視点」なので、「目で」ではなく「たしなめるごと見詰める吾が子」で十分でしょう。

また「父」と「目で」の二音を差し替えるのだとも考えられます。

 

感情のまま叱りいる父われをたしなめるごと見詰める吾が子

 

 

・上京の決意をボートにて話す揺れるロケット黙り込む君

 

  読者が幾通りにも想像をふくらませることのできる、魅力的な歌です。一首の言葉運びに難があり、作者の言わんとしていることはおぼろげに想像できても、何を伝えようとしているのか、書かれている言葉のせいで、「ああも読めれば、こうも読める」という場合は、まだ推敲の余地が多くある歌であります。

  しかしこの歌は、そうした意味で幾通りにも読めてしまう、ということでなく、明快にある場面が読み取れて、それははたしてどのような状況なのか、という面で、読者の想像が広がるので、とてもいいと思います。

 

  端的に例を挙げると、以下の通りです。

 

    作者が恋人に、「決意」を話す。「君」の胸でロケットが揺れ、「君」は黙り込む。

    恋人が作者に、「決意」を話す。以下、①と同。「思い」は逆になりますね。

    「恋人」ではなく、若い友人、あるいは子どもが「決意」をあらわす。「ロケット」がむずかしくなりますが、こんにち、いろいろなケースがあることでしょう。

 

三例のみ、挙げてみました。添削は必要ないと思います。「揺れるロケット」と「黙り込む君」が、完全な対句または並立の関係ではないにもかかわらずそのように置かれている点だけ、少し気にはなるのですが、かと言ってたとえば、下句を「ロケット揺れて黙り込む君」という定型的なおさめ方にするよりも、原歌のあり方でよいと思うからです。

 

 

・虐待の跡ではないが吾子の痣尻が動けば伸び縮む青

 

  一転して、深く、重いものを暗示する作品です。お子さんのお尻に青痣があり(不勉強ですが、いわゆる「蒙古斑」のようなものでしょうか)、お尻が動くとその痣の青色が伸び縮みする、という下句の観察は、よくできています。

気になるのは「虐待の跡ではないが」という一・二句です。すなわち「蒙古斑」ではなく、もちろん虐待でもないけれどゆえあって叩くなどした痕跡なのか、もしくはほかに理由のある青痣なのか。いずれにせよ、この一・二句を書く必然性が作者にあるわけですから、そこにはやはり、語るべき何かが秘められているのでしょう。

ただ作品上、そこを明らかにする必要はありません。このままで十分、読みごたえのある作品です。ただ、軽い文語脈を差し込むことでかなり手ざわりが変わることもありますので、その意味で一例、添削を挙げておきます。

 

虐待の跡ならねども吾子の痣尻が動けば伸び縮む青

 

 

 

 

 

2016.11                 作者:中溝幸夫    

ヒマラヤの峰の高みの雪見れば悠久の時間(とき)流れしを問ふ

 

 三首全体を読むと、作者ご自身の「ヒマラヤ登山」の体験が下敷きにあるのではなく、映像でそれを目にして読まれた歌だろうかという印象が強いです。

 

 しかしこの一首は、「もしかしたら以前、ヒマラヤに登られたことがあるのかも知れない」と読者に思わせるものがあります。もちろん「悠久」という言葉から考えれば、一人の人の経験的な過去の時間の長さによるものではないかとも、思われますが。

 作品の上では「経験的事実」「虚構」のいずれであっても、結句の「問ふ」が気にかかります。「問ふ」という用語自体がこの歌の内容にまったくそぐわないのではなく、このような「問ふ」のあり方も、あり得るとは思いますが、やはりここの意は「思う(ふ)」ではないかと、私は感じました。

 あるいは結句の八音を回避するために、「思ふ」ではなく「問ふ」とされたのでしょうか。だとすれば、古語では「思ふ」は「思(も)ふ」とも読みますので、「ながれしをもふ」という七音もあり得ることを、お伝えします。その際、「()ふ」「思(も)ふ」とルビを入れるかどうかは、悩ましいどころです(特にWeb上ではルビがカッコになりますので)。

 ただ、このような場合にルビが不要であることの良い例として、ひとつの寓話をお話ししたいと思います。私は『短歌人』の歌会の席で又聞きしたにすぎないのですが、平成24年に亡くなられた歌人の安永蕗子さんが、かつてある歌会で、同じようにルビの有無で二通りに読めるご自分の作品について「ここは何と読むのでしょうか」と聞かれた際、「ねえあなた、どっちでも好きなように読んでいただこうじゃありませんか」と、おっしゃったというのです。「達人の言葉」とはいえ、「ながれしをもふ」と読まれても、「ながれしをおもふ」と読まれても、ここではさしつかえないと、私は考えます。古語の読みに習熟している読者ならおのずと「もふ」と読みますし、「おもふ」と読まれて八音でも、ほとんど問題はないからです。

 もちろんちがう理由で「問ふ」に深い意味がある場合は、「問ふ」のままで良いでしょう。また「美し言の葉」では、原則としては「時間(とき)」のような読ませ方には賛同しない姿勢ですが、ヒマラヤの悠久の時間ともなれば、許容できるかとも思います。以上を集約して、添削案を二案、作りました。

 

ヒマラヤの峰の高みの雪を見つはるかな時の流れしを思ふ

 

ヒマラヤの峰の高みの雪を見つ悠久の時間(とき)流れしを思ふ

 

 いずれも、三句を「雪を見つ」とすることで、かっちり三句切れにしています。第一案が、「実体験に基づく」場合で、以前に登った時から「はるかな時」が過ぎたという内容です。第二案は、虚構すなわち映像などでヒマラヤを見ている場合のもので、こちらでは四句をそのまま生かしました。まだいろいろ、言葉の動かし方があると思われますので、ご検討下さい。

 

 

雲動き上弦の月煌々とヒマラヤの谷の貧村照らす

 

 この歌を読んだ読者が、最初に気にかかるのは、二句から三句の「上弦の月煌々と」でしょうか。上弦の月、つまり半月が「煌々と」村を照らしているイメージが、日本の汚れた大気の中、特に都会で生活している者の感覚では、ちょっと「おや?」というとらえ方になってしまう可能性があると思います。

 が、そこはヒマラヤなればこそ、実景として、上弦の月がそのように村を照らしているのでしょう。先に述べた懸念材料からすると、「上弦の」を伏せる手段もあるのですが、「ヒマラヤ」の歌であることが主眼ですから、この点は添削対象ではなく、ひとつの「指摘」にとどめておきます。

 添削的な問題があるとすれば、初句と結句です。初句は、用字の問題(漢字と仮名)と、「流れ」ではいけないのかという点。結句は、本来、貧村「を」照らすとなるべきところの「を」が省略されており、「ひん・そん・てらす」という音感になってしまっている点です。いずれも決定的な瑕ではないのですが、これらを勘案し、「動き」と「流れ」で二案作りました。

 

雲うごき上弦の月が煌々と照らすヒマラヤの谷の貧村

 

雲ながれ上弦の月が煌々と照らすヒマラヤの谷の貧村

 

 二ヶ所が字余りになりますが、バランスがとれている限りにおいて、字余りが字余りを補正し合う効果があり、この場合は「是」と考えています。「貧村」を体言止めにすることでも、情景を生かす力を持たせることができると思います。

 

 

ヒマラヤの貧しき村の軒先にマリーゴールド咲き乱れをり

 

三首の中でもっとも「点景」を詠った作品ですが、もっともよく整っています。この歌は、添削の必要はないでしょう。

植物の詳細には疎いのですが、マリーゴールドはヒマラヤのような高地にも、咲いているのですね。日本でもなじみのあるマリーゴールドが、ヒマラヤの「貧しい村」の「軒先」に「咲き乱れ」ていることが、歌として読者をひきつける力を生んでいるようです。

 

 

 

2016.10.9                                              作者:佐東亜阿介

幼子の命を守る「たすけっこ」雪の野原で試し吹きする

 

 とても良い作品だと思います。ただ注意点をあげると、「説明のしすぎ」は避けるべきだが、「読者に真意が伝わらない」のもまた、失点となる、この歌の場合だと「もったいない」点になる、ということがあります。

 たとえば我々は、「たすけっこ」が、子どもが緊急時に危難を知らせる呼び笛か何かであり、それを作者が「雪の野原」で試しに吹いているのだと、一読して読みとりました。しかし読者の中には、これだけでは何のことかよくわからない、というように、(心ない)批評をする人も必ずいます。そこまで考えて、一首を仕上げたいのです。

 さて、「たすけっこ」とは、全国的に小学生が持たされている「防犯ブザー」のようなものでしょうか。あるいはそれこそ「雪の野原」など野外で、急を知らせる笛のようなものでしょうか。後者の方がより北国、雪国らしく、「雪の野原」も生きて来ますが、いずれにしてもひとつ、手がかりになる材料を盛りこむことで、確とはわからぬものの読者がイメージを持つことができ、歌の世界も広がります。とりあえず「呼子(よぶこ)」で二例、添削しておきますので、実情に即したものを、お考えになってみて下さい。

 

  幼子を守る呼子の「たすけっこ」雪の野原で試し吹きする

  幼子を守る呼子よ「たすけっこ」雪の野原で試し吹きする

 

 

野仏の貌は風雨に薄れけり参る老婆の手の皺深く

 

 これもまた、とてもいい味わいの歌ですが、三句の「けり」が気になります。というのは、「けり」は過去・詠嘆の助動詞ですが、詠嘆は多く形容詞や助動詞のカリ活用の連用形について「苦しかりけり」「生きたかりけり」などの形をとるため(もしくは、心情をあらわす動詞なども、あるかも知れません)、この形では詠嘆とは考えにくく「過去」となります。しかし野仏の貌は「薄れ」ていまそこに「在る」のであって、それをあらわすにはまず完了・存続の「たり」がありますが、すこし「薄る(薄れる)」との関係が、むずかしそうです。そこで補助動詞としての「おり(旧かなでは をり)」を用いることで、歌意をほぼ万全にあらわしうるかと思います。

 

野仏の貌は風雨に薄れおり参る老婆の手の皺深く

 

 あとは漢字とかなのバランスの点で、「うすれ」「ふかく」をかな表記にしても良いかと思いますので、併記します。お考えになってみて下さい。

 

野仏の貌は風雨にうすれおり参る老婆の手の皺ふかく

 

 

野心ある訳ではないが人生を他者貢献に身をやつしたし

 

 作者らしい「述志の歌」ですね。歌意は良いと思います。ただし「身をやつす」の「やつす」は、「①みすぼらしく様子を変える。②出家して様子を変える。③痩せるほど切に思う。」(『広辞苑』第四版、抜粋)という意味ですから、ここでは少々そぐわない用語です。

これをもっともシンプルに差し替えると「捧ぐ」で、「身を捧げたし」というところですが、これでは作者の本意でもないでしょうし、いわゆる「つきすぎ」になってしまいます。「三句」の「人を」の格助詞「を」との重なりも、解決したいところです。また、「人生」と「身」も、一体のものとも見えます。これらの観点、また「他者貢献」を生かす考えから、

 

  野心ある訳ではないが人生を他者貢献に費やすべかし

 

 「べかし」はかなり特殊な形ですが、「『べかり』の語幹を形容詞シク活用に活用させたもの」で、「当然・相応・義務などの意を表す」ものです。めずらしい言葉ですが、内容としてはこの歌の意をもっとも強くあらわすと考えられます。

 もう少しオーソドックスな言葉運びとして、次の案もお示ししておきます。

 

   野心ある訳ではないが人生を他者貢献に投じてゆかむ

 

 

 

 

2016.9.9              作者:中溝幸夫                                                   

伊那谷は太く明るく広がりて天竜川に朝霧がたつ

 

 作品ベースでないことからお話しして恐縮ですが、私も今年の春、二十年以上の時を隔てて本当に久しぶりに、伊那谷を旅して来ました(飯田線に乗って来ただけですが)。詠まれているのは「太く明るく広がる」状態の伊那谷ですから、飯田以北の情景かと思います。

 登山をされ、その視点を短歌に詠まれる作者の作品として、スケールの大きな良い作品だと思います。このままで、十分に読みごたえのある一首であると受けとめました。

 

ただ私の提案と言いましょうか、「必須」の添削でなく、小田原漂情の言葉の好みでは、次のような案も考えられます。

 

伊那谷は太く明るく広ごりて天竜川に朝霧が立つ

 

作者は必ずしも「文語脈」一本の読みぶりではありませんから、「広がる」でも問題はないのですが、この作については、このスケールの大きさを生かすために、「広ごる」という文語を用いては、いかがでしょうか。さらにその意を生かす意味で、「たつ」は「立つ」と、漢字表記がよりふさわしいかと思います。

 

 

高山の道に残れりハイマツの種子啄んだホシガラスおり

 

この作は、「残れり」、「啄んだ」、「おり」の、時制と活用の整理が必要です。順に指摘します。歌意は、「高山の道に残」っているハイマツの種をついばんだホシガラスがいた(それを作者が見た)ということだと読めます。

 

はじめに、前の3行で歌意を案じた文脈に添って、文法上の注意点を申し上げます。「残れり」はラ行四段活用の動詞「残る」の已然形「残れ」に、完了・存続の助動詞「り」の終止形「り」が接続した形となっています。が、動詞「残る」は明らかに「ハイマツの種子」を修飾していますから、ここでは「残れる」(「り」が連体形となる)で「ハイマツの種子」にかかる必要があります。そして、「啄んだ」を連体形で現在にすれば(種子を啄むホシガラスおり)、今、眼前にホシガラスを見ている描写としては、完結します。

 

高山の道に残れるハイマツの種子を啄むホシガラスおり

 

このように読むのが、大方の読者の見方だと思いますが、あるいは、作者の見たものは、ホシガラスが啄んだハイマツの種子で、過去に啄んだものなのでしょうか?

その場合も時制、活用の整理は必要ですし、ホシガラスで締めるのは、ちょっとむずかしそうです。

 

高山の道に残れりホシガラスが昨夜(よべ)啄みしハイマツの種子

 

このあたりが、落としどころでしょうか。落ちているハイマツの種子から、それを啄んだホシガラスがいた、と作中で述べるより、「種子」に焦点を当ててホシガラスの動きを思わせるというのが、常道だろうかと思います。ただ、言葉の用い方によっては「ホシガラスがいた」ことを歌うこともできるとは思いますので、工夫なさってみて下さい。

 

 

うす暗き樹々のはざまの道辿りモルゲンロートの塩見岳目指す

 

 魅力的な歌です。「モルゲンロート」という言葉は、今回はじめて知りました。「朝焼け」と解説している辞書サイトもありましたが、置きかえることはできませんね。結句を定型七音とするために、「塩見岳指す」とする案もありますが、「指す」では語感が「見えている塩見岳を目標として進む」おもむきになりますので、原形のままで良いでしょう(おそらく、視界がひらけたところで、「モルゲンロートの塩見岳」が目に入る、それをはげみに歩をすすめるのだろうと読みとれますので)。添削の要もないかと思われます。

 ただ「用語」と「読者」との関係において、次のことは念頭に置いていただきたいと思います。それは、良きにつけ悪しきにつけ、「モルゲンロート」が一首の評価を決めるということです。「モルゲンロート」の意味と感覚が理解できてこそ、初句・二句の「うす暗き樹々のはざまの」が生きて来ます。今日の世ですから、ネット検索ですぐその意味はわかりましたが(辞書サイトに朝焼けの山の映像もありました、すみません)、十五年、二十年前ならば、「モルゲンロート」という言葉を知っている読者がその場にいるかどうかで、評価が大きく分かれただろうと思われます。辞書を繰りながら、「この言葉はどういう意味、味わいのものだろう」と語り合った歌会のシーンを、思い出します。

 

 もちろん私は、「モルゲンロート」の意に共鳴し、御作を高く評価します。ただ、長いスパンで作品の良しあしを語る際に、用語の通用性をも考慮するということをお含みいただいて、今後にのぞんでいただければと思います。

 

 

 

2016.9.9          作者:佐東亜阿介

野菜から食べて長寿を目指すなり短命県の返上願い

 

 青森県が「短命県」とされているのだということは、新聞やWebで目にしたことがありますが、はじめて見た時は少々意外な気がしました。また、「野菜から食べるのが良い」ということは、数年前でしょうか、かなりよく言われたように思います。ところで、短歌で何かを歌おうとするときの基本について、これまでにもお伝えしたかと思いますが、今回はもう一歩踏み込んで、お話ししたいと思います。

 

 それは、なぜ「詩」があり(広い意味で言います。その中に、内容として抒情詩・叙景詩・叙事詩があり、また形式として自由詩・定型詩・散文詩があります)、散文とは異なる価値を有しているのかということです。

 

 もちろん、真に語るなら一冊の本になろうということでありますが、端的に言えば「散文では語ることのできない内容を、散文よりも強いインパクトで語ることができる」点に、「詩」の力があると言えます。

 

 作者のこの歌の思いを「歌」としてインパクトのあるものにするには、すこし細工が必要でしょう。

 

短命県返上せんと野菜から喰いて長寿を目指す毎日

 

 

野球をば名付けた子規の句を学ぶ俳句文化の継承願い

 

 作者も野球がお好きなのですね。私(小田原)も、下手の横好きながら三十過ぎまではバッティングセンターに通い、数年前にやってしまった五十肩の恢復期には、塾の中でゴムボールを投げて最後のリハビリをしました。また、正岡子規は、俳句と短歌の再生・革新を果たした、両分野において、私どもにとってのまさに巨人と言えましょう。

 作品上では、まず初句に、文法上の訂正が必要です。「ベースボール」を野球「と」名づけたのが子規なのですから、初句は、「野球とぞ」とし、文語で「名付けし」と致します。

 また「俳句文化の継承願い」という作者の「本音」も、歌の表面にはあらわさない方がいいですし、「俳句文化」という句が「短歌作品」の中にあることにも、とまどう読者は多いでしょう。

 

野球とぞ名付けし子規の句を学ぶ俳句短歌の心なるべし

 

すこし、私自身の「遊び」を盛り込ませていただきました。「野球」イコール「野・ボール」の意だったと聞きますが、おそらく俳句や短歌の心に通じるものだったのではないかと考える次第です。

 

 

ITの分野で定年近き吾負い持つ業に励む喜び

 

 「負い持つ業」は、出色のものと思います。その「業」に日々励む喜びという結句、また初句の「ITの分野」という運びも良いのですが、それぞれを結ぶ助詞に、一考が必要でしょう。特に「で」は非常に口語的なので、「近き」との相性が良くありません。全体を整えて、以下の添削案としました。

 

 

  ITの業を負い持ち定年に近けれど日々励む喜び

 

 

 

2016.8.7                                               作者:佐東亜阿介

・ありふれた日々の暮らしを噛み締める電気釜からのぼる香りに

 

 とてもよく作者の気持ちが伝わり、生活の実感のある作品です。ただ、作歌の基本として、「われ」がこう思い、あるいはこうする、ということは、あまり直接、作品に現れない方が良い、ということが言えます。言い換えれば、淡々と事実を歌うことの背後に心情が透けて見えるような、そんな歌ぶりに、よく言われる余韻、余情があるということです。そんな観点から、添削案を作成しました。

 

つつがなき日々の暮らしのしるしとて電気釜より飯(いい)の香のぼる

 

 

・電算を真夜中独り監視する襲う睡魔と闘いながら

 

「電算」は、文字通りコンピューターのことでよろしいでしょうか。これもストレートな詠みぶりで、作者らしい作品と言えます。が、「電算」、「真夜中」、「監視」、「睡魔」と熟語が多く、また表現がやや直接にすぎるので、少し幅を持たせて、遊び、ゆとりのある一首にしたいと考えたのが添削案です。なお「ディスプレイ」は、年配の読者には取っつきにくいかも知れませんから、他の固有名詞があれば、差し替えていただいても良いかと思います。

 

真夜ひとりまなこを凝らすディスプレイ襲う睡魔と闘いながら

 

 

・台車押し顧客に荷物運ぶ日々まず届けたい笑顔と元気

 

 これも作者の日常がうかがえる、気持ちの良い作品です。短歌として工夫の余地があるのは、下句でしょう。とくに「笑顔と元気」があまりにストレートであることと、「届けたい」という口語から、ともすれば(言葉は悪いですが)一種の標語のように受けとられかねない点が残念です。そこで、四句を「まずは届けむ」と文語脈にし、「笑みとちからを」とはっきり倒置法(また「ちから」をかな書き)にしました。いかがでしょうか。

 

 台車押し顧客に荷物運ぶ日々まずは届けむ笑みとちからを 

2016.6.24                                                  作者:佐東亜阿介

行丘に週末だけの支那そば屋優しき味を知る人ぞ知る

 

「浪岡」に、「行丘」という表記があるとは、はじめて知りました。旅好きの身には、とても魅力的な地名です。「行」の字で「なむ」と読む動詞があるのでしょうか(「並む=なむ」と同義など)。Web検索、古語大辞典の見出しでは、見つかりませんでしたが。関東では、房総半島に「行川(なめがわ)アイランド」があります。

その由来などもブログに書かれると、興味深く、読者をひきつけ、お店のPRにもなるかと思います。また「浪岡町」は、いま横綱昇進が期待されている稀勢の里の先代師匠である横綱隆の里の出身地でしたね。学生時代、大ファンでしたから、毎場所テレビで、「青森県浪岡町出身」というアナウンスを、聞いていました。件の支那そば屋さんは、そこにあるのですね。

さて、作品ですが、「行丘に週末だけの支那そば屋」は、口語としては通らないこともないと思いますが、短歌作品では、無理があります。ここは連体格(連体修飾語を作る)の「の」で、「行丘の」とした方が良いと考えます。

また「知る人ぞ知る」は七音を使い切る成語で、短歌の中に盛り込むのには、勇気のいるフレーズです。しかし、お店への「讃」としての作歌動機も伺っていますので、原意をそのまま生かし、四句と五句を倒置法で入れ換えました。これで、短歌作品として、自立したものになるかと思います。

 

行丘の週末だけの支那そば屋知る人ぞ知る優しき味を

 

 

支那そば屋の体いたわる思いやり高み求めて止まぬ探求

 

 「支那そば屋」さんのご主人の、食べる人の健康に留意して探求をかさねておられる姿勢には、深く感じ入るものがあります。そのことを歌に詠み込み、贈るというお考えも、良いと思います。ただ「止まぬ探求」とダイレクトに言うよりは、ここでひと工夫をすることに、作歌の上での「探求」の余地がありましょう。「高み求めて」と「止まぬ探求」も、内容がやや重複している感があります。そこで「探求」する主体として「あるじ」に登場してもらい、感動をあらわす終助詞の「も」でまとめてみました。終助詞「も」は上代に多く用いられ、中古以降は少ないのですが、短歌では問題ありません。

 

「支那そば屋」の体いたわる思いやりあるじの探求つねに止まずも

 

 

 

一杯の薫るラーメン奥深くすする度また深き味わい  

 

「薫る」というラーメンの香り、味わいを、短歌定型の文脈の中にどう展開させるか、悩みました。原歌では、「一杯の」→ラーメン、「薫る」→ラーメンと、「ラーメン」に対する修飾語が二つあることから、少々こなれていない感があります。また下句も、すこし整理した方がよいと考えました。

そこで「薫る」を生かせず、またラーメン全体が奥深いという気持ちもおありだろうとは思いましたが、「奥深」いものの焦点を「香」に絞り、係り結びで三句切れにしました。下句も、「味わい」が「増す」という表現で、整合をとりました。いかがでしょうか。

 

一杯のラーメンの香ぞ奥深きひと口ごとに味わいが増す  

 

2016.5.27           作者:佐東亜阿介      

俳人を気取り句作に励みけり句友と出会い楽しさ増して

 

俳人と名乗るほどではないと謙遜なさりながら、俳句を作り、また句友と出会うことで、一層俳句を作る楽しさが増す・・・。俳句を学ぶ楽しさが伝わってくる作品です。問題は結句の「楽しさ増して」でしょう。「増して」という止め方は、やや中途半端で、歌が落着しない気が致します。そこで、石井は結句だけを改め、「いよいよ」の古語「いよよ」を用い、「楽しも」で納めました。対して小田原は、「気取り」を「擬して」、「励む」を「挑む」、「俳人」と初句で言っているので句友といわずとも「友」で伝わると考え、「楽しからずや」と反語を用い、「楽しくないことがあろうか、いや楽しい」という意を盛り込んでいます。ご存じとは思いますが、「また楽しからずや」は論語から引いています。いかがでしょうか?

 

俳人を気取り句作に励みけり句友を得るはいよよ楽しも(石井)

 

 俳人と擬して句作に挑むなり友得るもまた楽しからずや(小田原)

 

 

師と仰ぐ人とまみえし日を夢見今は句作に励む時なり

 

師というのは、メールの文面から、夏井いつき先生と拝察致します。これもメールから推し量ることですが、夏井先生とは一度お会いしてみたい、と思っていらっしゃると解釈致しました。すると、「まみえし」は過去の助動詞「き」の連体形「し」を用いていらっしゃるので、「お会いした」という過去形になります。これでは「夢見」ともそぐわないし、頂いた文面とも異なってきますので、石井は「まみゆる」、小田原は推量の助動詞「む」を用い、「まみえん(む)」としました。また、断定の「なり」は動きが乏しくなるので、石井は「励まんと決む」と、古語「決む」(口語「決める」→古語「決むる」の終止形)で納めました。対して小田原は、係助詞「ぞ」を用い、「今日ぞ楽しき」と係り結びでまとめました。いかがでしょうか?

 

師と仰ぐ人とまみゆる日を思い今は句作に励まんと決む(石井)

 

 師と仰ぐ人にまみえん日を思い句作に励む今日ぞ楽しき(小田原)

 

 

添削の歌集を望む我なりき拙き歌を如何に磨くや 

 

添削の経緯を一冊にまとめた本があれば、という作者のアイディア、とても参考になりました。一定量の作品が集まれば、まず冊子として実現させたいと思っております。

添削に入ります。事情を存じている私どもは、「添削の歌集」で理解できますが、一首の作品として初読する読者は、なんのことか呑み込みにくいのではないでしょうか?そこで、石井は「添削の歌を束ねし本」としました。また、「なりき」の「き」は過去の助動詞「き」(終止形)ですので、「望んだ」となってしまい、そぐわないと思います。ですから、石井案では「本のぞむ」としました。対して小田原は、かなり原歌を離れ、上句を「添削に歌磨かるる途ゆかし」としました。「ゆかし」とは、古語で、「具体的に好奇心を抱いた状態で、見たい、知りたい、聞きたい、などの意」を表します。下句で「願わくは一冊の本になれかし」と、ここで本のことを表現しました。小田原案は四句が大幅な破調(九音)ですが、「一冊」の「つ」や五句の「本」の「ん」などの半拍があることで、一首として成り立ちうるという経験則にもとづくものです。いずれ機会がありましたら、改めてご説明いたします。「なれかし」は、説得や確認のために念を押す気持ちを表す終助詞「かし」が、四段活用動詞「なる」の命令形「なれ」に付いたものです。

 

添削の歌を束ねし本のぞむ拙き歌を如何に磨くや(石井) 

 

添削に歌磨かるる途(みち)ゆかし願わくは一冊の本になれかし(小田原)

 

いかがでしたでしょうか?

 

今回の三首は、俳句や短歌を作るときの喜びや、希望、苦心の様などが表現されています。それはそれで、とてもよいのですが、石井が短歌を始めたころ受けた小田原からの指摘が、もしかしたら佐東様のご参考になるかと思いましたので、記してみます。

「短歌(俳句もそうでしょうが)を作るときの有り様を短歌に詠む、というのはやりたくなることだし、よくある短歌とも言える。しかし、それは得てしてつまらない作品になってしまう可能性が大きい。」

小田原にこれを言われたとき、私(石井)はショックを受けました。もちろん短歌なり俳句なりを作る様を詠った素晴らしい作品もありましょうから、一概に否定するものではありません。ただ、心のどこかに、こういう危険もあるのだ、ということを留めていていただけたら、と思うのです。気持ちを挫くようなことを言いましたが、ご一考下さい。

 

 

2016.6.1            作者:中溝幸夫       

卯の花の匂いほのかに漂へり十六夜の月を友と眺むる

 

 とてもよい情感が凝縮されていて、一点をのぞけば、このままでまったく問題のない佳作品だと思います。

 惜しむべき一点は、「卯の花」と「十六夜」です。当方の見識不足もあるかも知れませんが、「卯の花」は、季節で言えば夏の花であり、旧暦の「卯月」が「卯の花の月」の意であり、「皐月」、「水無月」、「五月雨」などの語と対比すると、初夏の花のイメージがあると考えられます。百人一首の持統天皇の歌「春過ぎて夏来にけらししろたへの衣ほすてふ天の香久山」の歌からも(しろたへの衣は、ウツギ=卯の花であると、一般に言われています)、夏の初めの花だというイメージが、多くの歌人の心中にあることと考えられます。

 いっぽう「十六夜(いざよい)」を辞書で引くと、「①陰暦十六日の月」のほかに、「②特に、陰暦八月十六日の月」という語義が、載っています。(古語大辞典、小学館)また、「十五夜」は陰暦八月十五日、「十三夜」は陰暦九月十三日の月、というような、樋口一葉につながる印象を持つとも言える読者のイメージとして、「十六夜の季節は何だっけ?(俳句の「季語」における「季節」の意です)」と感じることも、ままあるように思われます。

 この点が、ちょっと気にかかりました。一首の歌としては非常によくできていますので、この作に関しては添削案をお示しせず、「卯の花」と「十六夜」の関係についてのみ、ご一考いただければと思います。

 

 

水鳥の旅立ちあとの水面には蓮の蕾とむぎわらとんぼ

 

 この歌は、一首を構成している歌材がすべて名詞であるため、切り取っている情景自体は魅力的な内容でありながら、短歌作品としての味わいが不足しているうらみがあります。そこでまず、「水面かも」と三句切れにして、焦点を絞ります。また「むぎわらとんぼ」は残念ながら「蜻蛉(あきつ)」として、一首全体の締めを兼ねる形容の「しづか」(形容動詞の「語感」であり、形容詞ではありません)としてみました。

 むぎわらとんぼが、もし舞っている状態ならば、「蕾」の方を省略することで、別の形容のしかたがあると思います。

 

水鳥の旅立ちあとの水面かも蓮の蕾に蜻蛉(あきつ)ぞしづか

 

 

小手毬の丸き小さき花濡れて小枝も重し放物線を描く

 

非常に繊細な情景を描写しています。小さな小さな小手鞠の花まりの重さを、細い小枝が受けとめて、放物線を描いている。「放物線」が発見であり、もっとも強く言いたいところかも知れないと思いましたが、結句の十音には、やはり無理があります。「放物線」をどうしても盛りこむためには、他の素材を削らねばならず、それよりは、枝の様子を他の表現に置きかえようと試みたのが、添削案です。

 

 

小手毬の丸き小さき花濡れて重きや枝もまるくたわめる

2016.5.30                                                      作者:だまちょ

「朝の雨 園のツツジは濡れそぼち 押しのけて立つ若きヒメシヤラ」

 

朝の雨に、公園のツツジが濡れそぼち、それを押しのけて若いヒメシャラがすっくと立っている・・・。するどい観察眼から生まれた作品と言えましょう。この作品は「一字アキ」を試みられたものかと思います。小田原は、以前はよくこの手法を用いましたが、「あけずに一首を成立させるところに作歌の意義がある」という指摘を受けたこともあり、のち少しずつ、「あけずに書く」ことを志向するようになりました。ただし、必然性がある時の「一字アキ」を否定するものではなく、むしろそうすることで一首の完成度が高まるならば、積極的に挑戦するべきだと、今でも考えています。

 

 そこで御作の「一字アキ」についてですが、「朝の雨」と「園のツツジ」の部分には、その必然性があると受けとめられます。が、「濡れそぼち」と「押しのけて」の方は、必ずしもあいていなくとも良いという印象を受けました。そこで、添削案では前の「一字アキ」だけを生かすのでなく、一首全体を通して書く方向に運んでいます。

 

 

作品全体としては、多少盛り込み過ぎの感があります。短歌は「省略の文学」でありますから、何を削って、なにを残すかを、短い詩形の上で考えることが醍醐味と言えます。原歌で削れるとしたら、「朝」でしょう。初句を「濡れそぼつ」として一首を起こし、結句に「雨なかに立つ」を据えることで、原歌ではツツジとヒメシャラでややぶれてしまっていた歌が、ヒメシャラに焦点が当たって、落ち着くかと思います。なお、ご送稿下さった原歌では「ヒメシヤラ」とされておりますが、添削案と、この解釈・解説文では「ヒメシャラ」としております。この点も、ひとつ解説をさせていただきます。

 

新仮名遣い(現代仮名遣い)では、「ゃ」「ゅ」「ょ」の拗音、「っ」の撥音は、すべて小さく書きます。対して旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)では、原則は大きく書くことになっています(「古文」では、そう書いてあります)。「沙羅双樹(しやらさうじゆ)」のようにです。ところでカタカナ書きをする単語は、そのほとんどが外来語で、たとえば「レディー」を「レデイー」とするよりは(明治期にはこのような用例も多く見られますが~「レデイ」など)、現代の感覚で「レディー」である方が読者に受け入れられやすいと思われることから、私ども美し言の葉でも、その立場をとっているのです。御作の「ヒメシヤラ」は「沙羅双樹」から来る「しやら」なので、悩ましいところではありますが、私どもの表記上のスタンスとしてご理解いただき、今後の参考にしていただければ幸いです。

 

 濡れそぼつ園のツツジを押しのけて若きヒメシャラ雨なかに立つ

 

また、「朝」を生かしたいお気持ちが強ければ、園を朝に変えるという方法もあります。その点、ご一考下さい。

 

 

「老い止まぬ我が身かばいつ鍬打てば黒土は飛び朝の日に光る」

 

お齢を重ねられ、失礼かもしれませんが鍬を打つとき痛みが走ったり、お若い時のようにままにはならぬ感覚がおありなのかもしれません。その身をかばいながら鍬を打つと、畑の黒土が爆ぜちり、朝の日に光っている・・・。作者の作品は、どれも「事物をよくご覧になっている」のが素晴らしいです。短歌の基本は、まず「見て詠う」ことだからです。

 さて、添削に入りますが、「かばいつ」の「つ」は、単独では「~つつ」の意味にはなりません。このままでは完了の「つ」=かばった、の意で二句切れになります。「~つ~つ」(たとえば「こけつまろびつ」のように)という形なら、「つつ」に近い意となります。また、短歌は「我」を言いたくなる言葉の器ですが、言わなくてすむなら、言わない方がよいことがままあります。ですから、「老いすすむ身をかばいつつ」とします。下句は、「黒土は飛び」でもよいのですが、「爆ぜ」と、より印象的な言葉を用いてみました。結句、「光る」は「ひかる」と読むのでしょうか、それとも「てる」と読むのでしょうか。誤読を避けるために、「輝る」(てる)の字に差し替えてみました。

 いかがでしたでしょうか?ご一考下さい。

 

 老いすすむ身をかばいつつ鍬打てば黒土爆(は)ぜて朝の日に輝る

 

 

「小エビ追い遊んだ小川は水清く年老いて想う故郷の野山」

 

この作品はほとんど添削の必要がありません。動かすとすれば上句でしょう。「遊んだ」は口語脈ですので、「追い」に過去の助動詞「き」の連体形「し」を用い、「追いし」とします。また、記憶のなかで「水が清かった」と述懐しているとすると、焦点がややぼけてしまいます。齢を重ねて「今、眺めている」と、「いまも」に改めることで、焦点ができると思います。下句はそのままでよろしいでしょう。

 唱歌「故郷」の歌詞を彷彿させるような、物静かな詠いぶりで、好感が持てます。

 

 小エビ追いし小川はいまも水清く年老いて想う故郷の野山

 

 

2016.4.29                                                          作者:佐東亜阿介

吾子の問ふ宿題に父悩みけり父の威厳を如何に保たん

 

お子様がお父様に問われた宿題に答えに窮し、父の威厳をどのようにして保とうか悩む・・・。ちょっとユーモラスな、お子様への愛情の感じられるいい作品だと思います。

 一番の課題は「父」を二度使っていることでしょう。下句はいいと思います。動かすとすれば上句でしょうか。上句で「父」を使わないように工夫してみましょう。「吾子」と言わなくても前後関係から分かりますので、「子」とし、「問ふ」を「問へる」と存続の助動詞「り」の連体形を用い、「問ふている」意を表します。そして「父」と言わず、「宿題にはたと」と、八音の字余りを恐れず表現します。そして詠嘆の助動詞「けり」ではなく、完了の助動詞「たり」を用いてはいかがでしょうか?なお結句の「ん」は推量の助動詞「む」で、旧かなでは「む」と表記するのが正しいです。

 

子の問へる宿題にはたと悩みたり父の威厳を如何に保たむ

 

 

宴席の間にいち早く着きにけり歌など詠みて孤独楽しむ

 

 このままでも十分いい作品だと思います。しかし、作者は、歌の構成を大きく動かしても受けとめてくださる技量をお持ちだと思いますので、動きを出す意味で、ひとつ添削案をお示しします。

 「宴席の間」は、「宴の間」と省略でき、その分言葉選びに余裕が持てます。そして「いち早く着きにけり」を「とく(早くの意)来たれども誰もなし」と、「誰もなし」で孤独感を強調します。下句はいいと思います。いかがでしょうか?

 

宴の間とく来たれども誰もなし歌など詠みて孤独楽しむ

 

 

いつき組入りて俳人目指すなり歌人と二足わらじ履きたし

 

 作者は文芸を趣味とすることを思い決められたとのこと、主に短歌、川柳、俳句に力を注いでいらっしゃること、そして俳句は夏井いつき先生の「いつき組」に入られたとのこと、すばらしいバイタリティに感服致しております。

 さて、添削ですが、ほんのちょっと助詞を補うだけでよろしいと思います。「いつき組」は字余りを恐れず「いつき組に」と、「に」を補い、また「二足わらじ履きたし」は「二足の」と「の」を補います。こうすることで、若干舌足らずな感のあった原歌が、うまく座るかと思います。なお「入りて」は「はいりて」と読まれる恐れがありますので、「入(い)りて」とルビをふれば万全かと思います。

 

いつき組に入(い)りて俳人目指すなり歌人と二足のわらじ履きたし

 

 

2016.4.29             作者:だまちょ

春、桜の季節が終わるころの繊細な情景描写に挑んでおられ、好感の持てる一連です。初回でもありますので、短歌一般のことからお話し致しますと、短歌は「省略の文学」であり、何を盛り込み、何をそぎ落とすか、そこに作歌のむずかしさと、うまく五七五七七の三十一音の一首をまとめることのよろこびがあり、さらには出来上がった作品の伝える「力」が生じます。そうした観点から、添削、解説をさせていただきたいと思います。

 

 

風吹けど乏しい花びら二つ三つソメイヨシノは痛々しく散り

 

 材料・動作をすこし整理することで、一首のまとまりを生むことができます。原歌では、「風が吹いて」、「桜花(ソメイヨシノ)が痛々しく散る」という文脈ですが、「風が吹く」ことそのものは隠した上で、「風によって散る」ことをあらわすことが可能です。

 

二つ三つ乏しき花びら散るばかり名残りのさくらはかく痛々し

 

 花が「散る」のは、ことに桜の場合は「風」によることが多いので、「散るばかり」とした第三句で、その感覚を盛り込みました。また「痛々しく」を「痛々し」と、形容詞の終止形とすることで、安定した結びになると考えています。

 

 

湖面わずか波立つ中をミズスマシ風に吹かれて揺れて流れたり

 

 この歌は、省略することはなく、語句の入れ替えと言葉のあっせん(助詞・助動詞を主とする表現の工夫)で、ほぼ同じ内容とすることができました。結句の「流るる」は連体形であり、厳密に文法の決まり通りではありませんが(厳密には終止形「流る」、あるいは原歌「流れたり」が正解です)、厳密に文法通りであるよりも、ケースバイケースの「例外」の方が適切である場合もあるのです。添削例でも、四句が「ミズスマシひとつ」と八音の字余りになっておりますが、全体のバランスとして、この形を提案させていただきます。追って、またご説明する機会を持ちたいと思います。

 

風吹けば湖面わずかに波立ちてミズスマシひとつ揺れて流るる

 

 

湖水にはムラサキツツジぞ映り込み桜の花は寂しく過ぎて

 

 この歌では、二句の「ぞ」を省き、三句を「映り込む」と終止形で止めました(三句切れになります)。また「桜の花」を、「桜のとき」と改めてあります。ただいまのところ、この形でいかがでしょうか。文法のことを、添削案の後に記します。

 

湖水にはムラサキツツジ映り込む桜のときは寂しく過ぎて

 

 「ぞ」という助詞は、「係助詞(けいじょし)」です。強意(強調)・反語の意を有しています。そしてご存じと思いますが、「係助詞」は「係り結び」をとる決まりがあります。「ぞ・なむ・や・か」は連体形、「こそ」は已然形で文末を結ぶ、というものです。

 

 二首目のところで申し上げた通り、絶対的に「文法の決まり通りでなければならない」ということはないのですが、私どもを含め、「短歌の読者」は、「ぞ」の結びは係り結びで連体形になっているのが当然だ、という先入観で、一首一首の短歌を読みます。その時、「ぞ」が用いられているのに、「違う書き方」である場合、まず「違和感」を覚えます。提示された短歌に「評」を下す場合、そこが「マイナス」にもなるのです。

 

 その意味から、まず「ぞ」を省きましたが、省いた上で三句切れとした添削案は、いかがでしょうか。

 

 

2016.3.14                                                                                         作者:中溝幸夫

    黄鶲(きびたき)の飛び来る庭に春まだき「早春賦」の詩(うた)のごとくに

 

キビタキは訪ね来るようになっても、「春は名のみ」で、風も寒い頃の情景ですね。技巧上の点から考えてみたいと思います。「春まだき」の「まだき」はよく見ますが、「いまだし」の連体形から来るのかと思い、調べてみますと、小学館『古語大辞典』では、語源はやはりそう類推しながら、品詞としては副詞、語義は「まだその時期でないのに、早くも」と書かれていました。語義の方は、必ずしも辞書に書かれている通りとは限りませんから、措くこととしますが、「いまだし」「まだし」の意で用いるとして、「庭に」ではなく、「庭は」の方が、しっくり来るのではないでしょうか。

また、四句が六音である点も、改める必要があろうかと思います。原歌への添削としては、以下の案となります。

 

黄鶲(きびたき)の飛び来る庭は春まだき「早春賦」なる詩(うた)のごとくに

 

また、「早春譜」という曲名でなく、「春は名のみ」の歌詞を盛り込む方法もあります。

 

黄鶲(きびたき)の飛び来る庭は春まだき「春は名のみ」の詩(うた)のごとくに

 

    正確な時を刻んで白蓮のつぼみ膨らむ早春の里

 

こちらは白蓮の花が時をあやまたず咲くさまを的確に読んでいますね。このままで十分

良いと思われます。たとえば文語的、より短歌的な言葉づかいとして、初句を「確かなる」とすることなど考えましたが、「正確な」とは、意味が変わるきらいもあります。「刻んで」を「刻みて」にする案も添削の過程に浮上しますが、「正確な」につづくなら「刻んで」の撥音便の方が良いでしょう。

あえてアクセントをつけるとすれば、結句でしょうか。可能性の一つとして、結句を改める添削例を、考えてみました。

 

正確な時を刻んで白蓮のつぼみ膨らむきさらぎの里

 

 

    遠ざかる堤(つつみ)の桜むらさきにけぶれり春はすぐかもしれぬ

 

「桜」が「むらさきにけぶ」るのは、開花直前かと思って読みましたが、四句の句また

 

がり以降を読むとそうではないらしく、どのような情景だったのでしょうか。そこに疑問が残り、けれども魅力のある作品です。詩歌ですから、すべての字句に整合性がなければならないわけではありませんが、「魅力」を「疑問」が上回ってしまうと、読者をつなぎとめることができません。「堤の桜」ですから、雨の中、そのように見えたのか。もう一つ手がかりがあって、すっきり咀嚼できると、より良い歌になると思います。

2016.3.14                                                      作者:佐東亜阿介

黒豆を炊く専用の電気釜黒く染まりて甘く薫りぬ

 

 黒豆専用の電気釜をお持ちなのですね。興味深く拝読しました。歌想も、その電気釜が色は黒くなり、かつ甘い香りを放っているということで、良いと思います。ただ、下句が対句的になるのですが、短歌は音数の制約が大きいため、流れやすく、対句は不向きです。また表現上の重複は、避けるのが基本です。もちろん、あえて重ねる手法もあるのですが、その時は、言葉選びを慎重にする必要があります。

 

黒豆を炊く専用の電気釜黒光りして甘く薫れり

 

 「黒光り」では、原意と多少異なるかも知れませんが、歌のリズムという点では、がらりと変わると思います。また「ぬ」に代えた「り」は、完了・存続の助動詞ですから、いま「黒光りして甘く薫っている」意となります。いかがでしょうか。

 

 

雪掻きにひねもす務め終えにけり夕餉の前の湯や心地好く

 

 一日中雪かきをされ、夕餉の前のお風呂が疲れを癒す。北国の冬の日常を詠まれた、良い作品だと思います。このままでも十分良いのですが、少し慣れた、きびしい目を持つ読者からは、結句に対して批判が出るかも知れません。より表現をつきつめる例として、一つ添削案を挙げておきます。

 

 ひねもすを雪掻きおえて湯につかる夕餉のかをりほのか立ちくる

 

 こうすれば、一日の雪掻きを終えてくつろぐ作者の姿が、原歌での「作者一人」の描写から、疲れをねぎらってくれるご家族の存在を詠みこんだ、奥行きのある作品になるのではないでしょうか。

 

 

ツイッター如く短歌が普及せば楽しからずや恋語るとも

 

 私はツィッターについては、アカウントを取得しただけでほったらかしてあるのですが、中学生でもツイッターを使っている子が多い現在、たしかに「恋」と「ツィッター」と「短歌」とを並べてみるのは、面白い着眼です。古いことを思い返せば、『サラダ記念日』で短歌のすそ野が広がり、(当時の)若い人たちが「われもわれも」と短歌らしきものをつづった時代に、ツィッターのようなものがあったら、どうなったかな?という想像も広がります(読んだことはありませんが、ケータイ小説というものも、あるそうですし)。

 

ところで作品の技巧上は、六音にはなりますが、初句の「ツィッター」のあとには、「の」が必要だと考えられます。

 

 ツイッターの如く短歌が普及せば楽しからずや恋語るとも

 

 また、「とも」は本来、文語で「逆説の仮定」をあらわす接続助詞です。このままでまったくの誤りではありませんが(たとえ苦しい「恋」を語る場合であっても、ツイッターのように短歌がはやっていたら楽しいだろう、の意)、原歌の歌意は、「(かがやかしい)恋を語る時にも、ツイッターのように短歌が広がっていたらもっと楽しいのではないか」の意だと、私には思われましたので、「にも」の方がよりふさわしいと考えて、次の添削案としました。

 

 ツイッターの如く短歌が普及せば楽しからずや恋語るにも

 

 ただし、絶対的に、辞書におさめられている字義に従うこともありませんし、昨今の言葉の感覚は、大きく変動しています。また、「恋を語る」のが「苦しい」歌意ならば、まさに原歌の言葉運びが正解であるわけです。

 

 

2016.2.23             作者:佐東亜阿介     

    日の光心地よい風ビートルズ他に要らない午後のひととき

 

 とてもおだやかな、気持ちのよい光景が目に浮かびます。技術的には、「日の光」「心地よい風」「ビートルズ」と、「心地よい」材料が、各句とも名詞止めで並んでいるので、助詞をうまく使うなどして、工夫したいところです。

 

 ビートルズ聴きつつをれば午後の陽と心地よい風がわれをつつめる

 

 

    成人の自閉症とや我が脳は思い当りて深く安堵す

 

歌を詠み、詩や小説を書く、あるいは哲学の道に入る、そうした人々は、みな何かしら心に常ならぬものを秘めているかと思います。太宰はその典型でしょうし、キルケゴールは「心にある棘」のために、婚約者とともに生きることを捨てたと、読んだことがあります。「自閉症」とは大胆な表出の仕方ですが、こうした大胆さは、可と考えます。

気になるのは、「と-や」であり、ここは「か-と」の方がすわりがよく、読者も受けとめやすいだろうと思います。

 

成人の自閉症かと我が脳は思い当りて深く安堵す

 

 また、「思い当」る脳に対して、「安堵す」るのは心の働きかとも思え、この関係は、少し掘り下げて考えてみても面白いかと思います。国語のテキストの引用程度の文章で読んだに過ぎませんが、養老孟司さんは「心は脳の働き」と断言していますので、御作の言葉づかいが誤りだということではなく、「脳?心?」ということを、考えるのは面白いかな、という意であります。

 

    独創の措辞とは何か自問する独善排し類想を捨て

 

 非常に難しいところを詠んでおられますので、あえて率直に申し上げたいと思います。短歌あるいは詩歌に限らず、およそ文学作品というものは、作者自身が「こう」と思うところを、「こう」だとは言わずに、それこそ修辞を凝らして、その「こう」の内容を作品化することに、いのちがあります。すなわち下句の「独善排し類想を捨て」たところから、作者がどのような言葉をつむぐのか、そこに読者も注目するのです。

 

 別の言い方をすると、作者が自身の考えること、伝えたいことをストレートに作品に盛り込むよりも、すこしずらして、「あえて言わないところ」を読者に読みとってもらうことが重要です。

 

 この点では、自作の引用で恐縮ですが、私自身の経験譚をお話ししましょう。かつて、長良川河口堰反対運動に身を投じ、あわせて次のような作品を発表しました(抜粋です)。

 

淡々と工事はすすむ子々孫々むしろ恥づべきものなれどなほ

人類の叡智といひてどれほどの生命を、種を、破壊したか

傍観はネガの課外と確信す 平成三年十月五日 夜

 

しかし、短歌作品として奥行きがあり、読者にも好まれる(あるいは読んでもらえる)のは、次のような歌なのです。この点は、私自身も作品を発表してほどなく理解しました。

 

堤防をちひさき蟹が這ひまはり這ひまはりつつ雨にぬれてゐる

 

 感覚的に、おわかりいただけるでしょうか。実例でご説明したような観点から、添削案を考えてみました。

 

 

独創の措辞を求めて推敲す石積むごとき日々と思いつつ 

 

 

2016.1.20             作者:中溝幸夫 

   今回の作品は、凛とした高山、登山の実景を詠んでおられ、雪山=新雪の峰に強い憧れを抱きながら、自らは仰ぎ見るのが専門の私としては、実地のおもむきに触れ新鮮な感覚を味わうことができました。

 

    振り向けば遥か高みに剱岳雪頂きに雲が湧き立ち

 

 一読して、壮大な雪山の景がまなうらに浮かびます。言葉の斡旋、すなわち一首全体の言葉運びや、用字の点で気になるところがありますので、少し整理してみたいと思います。まず、単純に言葉だけを整理すると、次のように動かしていかるかと思います。

 

  振り向けば遥か高みに剱岳雪頂きに雲が湧き立ち

            ↓

  振り向けば遥かな高みに剱岳雪頂きに雲が湧き立ち

            ↓

  振り向けば高みはるかに剱岳雪頂きに雲が湧き立つ

 

次に、下線部分の三・四句で名詞、漢字が連続しているところを検討します。

 

  振り向けば高みはるかに剱岳しろき頂きに雲が湧き立つ

 

 四句は字余りとなりますが、壮大な情景を詠っていますから、疵にはならないと思われます。漢字の連続を回避するために、「しろき」としました。

 

    雪が飛び風頬を射し空蒼く冬剣岳の頂きを目指す

 

この歌は、二ヶ所、大きく気になるところがあります。まず、「雪が‐飛び」「風(が)

頬を‐射し」と、主語・述語が二組ありながら、後の方は「が」が省略されていて対句に

ならないこと。そして四句での「冬剣岳の」の「冬」と「剱岳」のつながりです。後者は散文ならば、「冬、剣岳の」と読点が入るところでしょう。着想の美しさ、きびしさを生かすためにも、言葉の斡旋を計りたいところです。

  

雪散らし頬(ほ)を射貫く風きびしかり蒼空に立つ剣岳鋭(と)し

 

 これで十分、実地に剱岳の頂きを目指している感覚は、盛り込めるのではないでしょうか。なお原歌のように「射す(し)」一語である場合には(添削案は「射貫く」の複合語)、

「刺す」の用字が適切かと思います。

 

    太き尾根昏き林に積む雪をラッセルしつつパーティは登る

 

「太き尾根」は、山登りをなさる当事者にしか、表しえない表現だと思います。「昏き林」には、大いに共感します。余談ですが、若い頃、八ヶ岳や蓼科に事業所のある宿泊業の会社に勤めておりましたので。

 さて、この歌は、結句を手直しすることで、おおむね解決が図れるのではないでしょうか。すなわち-

 

  太き尾根昏き林に積む雪をラッセルしつつ登るパーティ

 

 こうすることで、一首の「すわり」は良くなると思います。もちろん、作者の立ち位置が変移することとなり、原歌では「パーティー」の中にある作者の視線が、添削案では外から第三者的に見ていることとなるうらみはあるでしょう。しかしそれも絶対的なものではありませんし、原意をそこなわずに一首の安定性を獲得するという意図で、上記を添削案と致します。

 

 

 以上、山登りにおける「実感」は想像しつつ、修辞の面から解釈と添削を試みた次第です。

 

 

2016.1.2              作者:佐東亜阿介      

◎いつもより寝坊した朝二人して気だるげに飲むコーヒー甘し

 

 休日の朝、お二人での憩いのひとときでしょうか。あるいは「寝坊」というアクシデントを開き直って楽しむような、そんな光景でしょうか。ご夫婦二人の、日常とは少し違った様子に、倦怠感がただよっている、良い作品です。

 一点、歌壇的な注意点を挙げると、「甘し」という語は、それを使うだけで作品が「甘い」と指摘されることが、ままあります。特に「気だるげ」と「甘し」の共存は、苦しいところでしょう。「気だるげ」を生かし、「甘し」の語を差し替えることで、添削を試みたいと思います。

 

いつもより寝坊した朝二人して気だるげに飲むコーヒー温し

 

 

◎地元紙に載りし吾が歌まだ一首たゆまず詠みて天位目指さん

 

 御作が「地元紙」で掲載された由、まことにおめでとうございます。メールで拝見しましたが、いい歌ですね。「皺一つなく」の二句から三句へのつながりが、とてもいいです。

 さて、批評・添削対象の作品ですが、下句、特に結句をひと工夫することで、率直な作者の思いが、もっとゆるぎなく読者に伝わるものになるのではないでしょうか。「天位を目指そう」という意思を、直接あらわすのでなく、一歩下がって表現することで、歌としての広がりが生まれます。

 

地元紙に載りし吾が歌まだ一首たゆまず詠まん天位ははるか

 

 

◎松の間にいつか行かんと志すすめらみことにまみゆと願い

 

 

 「松の間」に行こう、とのお志、歌会始を念頭に置いてのものでしょうか。ぜひ今上陛下にお目にかかれるよう、頑張って下さい。今上陛下と昭和先帝、お二人の帝の御世をほぼ等しい期間知っているわれわれの年代では、皇室と「すめらみこと」に対する感じ方が、やや複雑です。かつて岡井隆さんが歌会始の選者になられた時、歌壇の一部からは強い批判があったというような、過去の経緯もあります(私も違和感を覚えました)。

 

 もちろん、今上陛下と皇后陛下がこんにちの皇室の在り方をおつくりになった、そのお心とお力は、深く尊敬し、敬愛致しております。ただ、読者によっては、「すめらみこと」のとらえ方に諸々の思いがあるだろうということは、作品の思想・背景として、留意される必要があろうかと思います。

 また、作歌の技巧上の面では、「すめらみこと」を直接言わない方が、深みが出ると思われます。

 

いつしかにお題を深く詠みきわめ松の間に座を占めんと誓う

 

 「すめらみこと」を避けるために、全体の構成を大きく変えましたが、いかがでしょうか。「松の間」を目指す目標がさらに高いところにあるならば、その題材を「匂わせる」ことで、同様の詠み方ができるでしょう。

 

 

2015.12.2              作者:(あ~すけ改め )佐東亜阿介  

添削で見違える歌産まれけり石でありしが玉にて帰る

 

                      (原歌) 

 

この作品はほとんど添削の必要がないと思います。文語できっちりまとめられていますし、結句の「石でありしが玉にて帰る」も、「石」と「玉」が、やや常套的とはいえ、一首を落着させています。少し気になるのが、三句の「産まれけり」でしょうか。大きな疵では勿論ありませんが、「なりにけり」としたほうが、前回の「原歌」と「添削案」の移り変わりのようなものが見えるのでは、と思い、今回の添削案といたしました。歌が「産まれる」という比喩も捨てがたいのですが・・・。なお、「見違える歌と」と、八音になりましたが、前後の整合性から考えて、あえて採用させていただきました。

 

添削で見違える歌となりにけり石でありしが玉にて帰る

 

                      (添削後) 

 

 

初めての文化祭子のがんばりに父も初めて焼きそばを焼く

 

                       (原歌)

 

初めての文化祭で、お子さんが一生懸命頑張っておられる。それを目にしたお父様も、「焼きそばを焼く」という、初めてのことに挑戦され、お子様と息を合わせ、応援なさる気持ちでいらっしゃる・・。お子様を想う気持ちが溢れ、作者の誇らしいお気持ちも滲み出て、よい作品だと思います。

ただ、二句の「文化祭子の」と続くところ、少々窮屈な感を覚えます。また、「初めて」が「子」と「父」の双方に使われていること、意識的になさったのでしょうか?この作品の構成だと、若干不用意に思えます。「子のがんばり」は生かしたいところですが、下句に譲り、「父もがんばり」とさせていただきました。そして、お子様の方は「奮う」という言葉を斡旋してみました。

 

文化祭を初めて迎え子は奮う父もがんばり焼きそばを焼く

 

                      (添削後)    

 

 いかがでしょうか?かなり原歌を大きく壊してしまったので、ご不満もあろうかと思われますが、こういう添削案もある、ということでお納め下さい。

 

 

いつの日かあっと言わせる人物になると決め早や二十年経ち

 

                       (原歌)

 

 誰しも(と言っては失礼ですが)世の中をあっと言わせる、ひとかどの人物になりたい、そう願ったことはあるのではないでしょうか。とても共感できる作品です。

 二句の「あっと言わせる」は、「(世の中を)あっと言わせる」と、「世の中」が省略されていますよね。その省略による物足りなさがちょっと気にかかりました。そこで、「世を唸らせる」と改めてみました。また、結句の「二十年経ち」と、連用中止法で収めるのは、二十年経ち、そして今も・・・。という意味が含まれているのだと思いますが、少し宙ぶらりんな感がします。ここは、「二十年経つ」と、終止形で終わらせた方が、一首の座りがいいように思います。

それらを考慮した添削案が次案です。 

 

いつの日か世を唸らせる人物になると決め早や二十年経つ

 

 

2015.12.1                                             作者:マジャッキー

すずなりの柿はおのずと実を落とせども身の程残り秋に色づく

 

                         (原歌)

 

たわわに実をつけた柿ですが、自然の摂理で自分から実を落とす。しかし秋には身分相応に残った実が色づいている・・・。里山の秋の光景が美しく描かれています。また、農家(と申し上げてよいのでしょうか)の方の厳しい目で、たくさん生った柿が身の程を知るように実を落とし、残った柿だけが色づくのだ、と分析もしておられます。

 さて、添削ですが、三句が「実を落とせども」と七音で破調になっているのが惜しいですね。正しい表現かどうか分かりませんが、「おのずと間引かれて」とすることで、「おのずと実を落とす」ことが表せるのではないかと考え、添削案といたしました。「身の程」は広辞苑で引きましたが、「身分相応」の意があり、意味としてはこの用法で正しいことになります。ただ、「身の程残り」だと、「身の程」が副詞的に使われていて、必ずしも間違いではないのですが、一読後「?」という疑問が兆します。「身の程を知る」というのが成句であり、「身の程」は名詞であろうというのが、私どもの感覚です。しかし私どもは東京圏に住んでおり、こちらの言葉使いが当たり前だと思っておりますが、作者のお住まいの熊本県、広くは九州、もっとひろくは関西圏では、「身の程残る」という言い方が常套的にあるのかも知れないと、留意しています。

 また良し悪しは別ですが、文学作品の批評も共通語ベースでなされるのが実際のところです。したがって、「身の程残る」という言い回しが日常的に用いられている場合でも、その言い回しを知らない地域の読者からは、先に挙げた懸念が指摘されうるということを、前提に考える必要があるでしょう。

ですから、「身の程残る」がはっきり誤りであるとして添削案をお示しするわけではありませんが、また字余りを含みますが、「身の程を残し」という例をお示しします。必ずしも絶対と言うことではありません。

 

すずなりの柿はおのずと間引かれて身の程を残し秋に色づく

 

                         (添削後)

 

 

三日月の仄かな光遮ぎりて鴉ひと声鳴いて去り行く

 

                          (原歌)

 

 三日月の仄かな光・・・。それは、本当に、本当に仄かな光なのでしょう。そこを、鴉が一声鳴いて、遮って飛び去って行く。鋭い観察眼です。

ひとつ指摘させていただきますが、「遮ぎり」の送りがなに少し引っかかりました。「遮り」が正しい表記だと思ったのです。ですが、作者の年代では、「遮ぎり」と表記するのが普通だったかもしれません。私の母(昭和六年生まれです、作者はもっとお若いですが)に尋ねたところ、やはり「遮ぎり」が正しいと思っておりました。戦後、現代かなづかいが定められた時と、昭和四十八年に送りがなが改められた時(「行なう」が「行う」とされるなど)、そして昭和五十六年に現在の常用漢字が定められたときなど、送りがなを含むかな表記は大きく変わっています。現在は「遮り」とするのが通則です。一応、ご注意までに記します。

さて、「遮りて」「鳴いて」の、助詞の「て」の重なりも気になるところです。そこで原歌を大きく壊しますが、「三日月の仄か光(て)れるを」としてみました。「光(て)る」は、文字通り「光る」の意味です。また、鴉が遮って「行った」として、過去の助動詞「し」を用いました。もう一点、「鳴いて」は文語「鳴きて」のイ音便ともとれますが、口語の「鳴いて」とも取れます。読者に迷いを生じさせないために、ここは、文語「鳴きて」といたします。

 

三日月の仄か光(て)れるを遮りし鴉ひと声鳴きて去り行く

 

                        (添削後)

 

 

ゲリラ豪雨の濁流が家を呑む鯨が鰯呑み込む如く

 

                        (原歌)     

 

ゲリラ豪雨の被害は記憶に新しいところです。被害に遭われた方々には、深く頭を垂れるしかありません。もしかしたら作者は、被害に遭われたのでしょうか?もしくは近しい方がそのような状況になられたのでしょうか?こころからお見舞い申し上げます。

 批評に入らせていただきますが、「ゲリラ豪雨の」「濁流が」「家を呑む」と、七音、五音、五音、とおおきく破調になっています。あえて破調を試みるテクニックもあります。この破調は、ゲリラ豪雨のおそろしさを表現している、とも思えます。下句が定型にまとまっているので、ここで落着するとも鑑賞できます。また、「ゲリラ豪」「雨の濁流が」「家を呑む」と、句割れ句またがりで、五、七、五と勘定してお詠みになったのかもしれませんね。しかしながら、句割れ句またがりは難しい手法です。安易には使わない方がいいと思います。あえて、しつこく、しつこく定型に収める練習をすることで、表現の幅もでてきますので、定型の場合の添削案を挙げてみます。

 

家を呑むゲリラ豪雨の濁流ぞ鯨が鰯ひと呑みにせる

 

                       (添削後)     

 

 上句の破調は、原歌を倒置することで改案してみました。また、三句に強調の係助詞「ぞ」を用いています。「鯨が鰯呑み込む」というのは、とても効果的な比喩ですが、「如く」は直喩です。これを「如く」を使わず暗喩とすることで、表現に深みが出ます。そこで「鯨が鰯ひと呑みにせる」としてみました。結句は「せり」が常套的な収め方ですが、「せる」と連体形で終わることで、口語の「する」の音韻も意識して、鯨の、ひと呑みにする動きを出してみました。なお、上句の「濁流ぞ」で切れますので、結句の「せる」は係り結びの連体形「せる」ではありません。

 

 

2015.11.20                                                作者:中溝幸夫       

    暮れる秋つめたき雨に水仙の包(つつみ)の中の蕾縮まる

 

                          (原歌)

 

晩秋の雨の中、水仙の様子を精密に観察、描写しておられ、うなずかされます。音韻の上で気になるのは、「つつみ」「つぼみ」と、「つ」「み」が重なること、さらに「ちぢむ(ちぢま・る)」と、タ行音・マ行音が連続するところでしょうか。

 これはもちろん「禁忌」などではなく、一首を読んで受ける印象が、ほどよい、快いリズムなのか、逆に違和感や物足りなさを覚えるのか、ということをつきつめて行った時に、解明されるたぐいのものです。

 原歌は、「違和感」「物足りない」というほどマイナス面が強いわけではありませんが、いま少し、結びをどっしりと受けとめる感覚があっても良いかな、と感じました。「蕾」は動かせないでしょうから、締めの「縮まる」、次いで「包み」の順に、一考の余地があろうかと思います。

 ちょっと調べてみましたら、水仙は蕾まで育てても、そこで枯れてしまうことがままあるそうですね。そこを案じての「縮まる」であれば、他の言葉に置き換えるのは難しいかも知れませんが、何か適切な言葉があるのではないでしょうか。一案として、「縮まる」を「ちぢかむ」としてみました。さらにふさわしい言葉を探っていただけると、良いと思います。

 

暮れる秋つめたき雨に水仙の包(つつみ)の中の蕾ちぢかむ

 

                        (添削後)     

 

 

    天草の大いなる海眺めつつ昏くなりゆく浜に佇む

 

                         (原歌)

 

「天草」の固有名詞と「大いなる海」という「海」への賛辞がうまく呼応するのか、否か、の判断が大事です。実はこうした対応のさせ方は、意外に難しいものであります。私自身も経験があるのですが、作者自身は眼前の景に強い感動を受けており、ごく自然に実景=固有名詞と、内面の感動とを結びつけます。が、言葉を通して客観的にとらえる読者の目から、あるいは作者自身が、時を経てふたたび作品を検証するとき、どのように感じるのか。

 

 私の実体験では、直接対応させるかたちのものは、後年改善の余地があると感じたケースが、多くありました。その経験値から言えば、固有名詞と賛辞とは、離しておいた方がおおむね成功するということを、助言させていただきます。

 

暮れてゆく大いなる海眺めつついま天草の浜に佇む

 

                        (添削後)  

 

 もちろん作者の好み、思いを尊重する立場ですから、一例として、提示するものです。また、添削案の形ではなおのこと、「天草」をより典型的な固有名詞、たとえば「牛深」や「苓北」、九州本島から見ているのなら「八代」や「不知火」などに置き換えた方が、印象が鮮烈になると考えます。

 

    たで原の芒の穂にもやはらかな晩秋の風が語りかけなむ

 

                         (原歌)      

 

「なむ」は入試古文でも、「『なむ』の識別」として出題される、複数の成因のある語です。はじめに整理します。

 

    助詞「なむ」 未然形接続。他への願望。「あつらえのなむ」

 

    (強意・確術)の助動詞「ぬ」の未然形推量の助動詞「む」(終止、連体)

推量の「む」を強める。「ぬ」の接続なので、連用形に接続。

 

③係助詞 主として係り結び(連体形)をとる。強意。連体形または体言に接続。

 

(語ではないが)ナ変動詞(死ぬ、往ぬの二語のみ)未然形推量(意志)の助動詞「む」(終止、連体)の一部

 

原歌は下二段動詞「語りかく」に続いていますから、形の上からは①か②ですが、格助詞「が」(主格)があること、また文脈からも①ではなく②と受け取るのが普通です。すると「たで原の芒の穂」は、A. 実景でしょうか。それともB.過去に足を運んだことのある場所の現在を、想いみているのでしょうか。

 

A. の場合は、曖昧で意味のとりにくくなる「む」(「なむ」)を使うのでなく、「かも」などの終助詞の方が、良いかと思われます。

 

たで原の芒の穂にもやはらかな晩秋の風が語りかくかも

 

ここで、断定の助動詞「なり」も候補になりますが、連体形接続で「語りかくるなり」となるため、不適です。

 

またB. の場合、原歌の表現で誤りとは言えませんが、より明確な現在推量の助動詞「らむ」を用いた方が、二案に読めるというとまどいを読者に起こさせないので、良いでしょう。

 

たで原の芒の穂にもやはらかな晩秋の風が語りかくらむ

 

                       (添削後)    

 

これなら「今、あのたで原の芒に、晩秋の風が語りかけていることだろうなあ」と、すっきり読めます。

 

今回は、文法・用語等が中心となりました。何十年書いていても、また文法等の知識があっても、自作となると上手く行かないのが、短歌、創作というものではないでしょうか。

2015.11.5                作者:あ~すけ

今日は新メンバーをご紹介します。あ~すけさんです。

あ~すけさんは、全体的に口語調で、率直に思いをまとめておられ、好感が持てました。

ひとつ、短歌そのものの特徴、注意点として、大前提をお伝えしておきますと、五七五七七という日本語のリズムには非常に快い韻律があり、それゆえ各種の標語なども、同じ音数で作られることが多くあります。したがって短歌作品も、最初は五七五七七にまとめることが目標ですが、そこから屈折や陰翳を生んでゆくことが求められるようになって行きます。そうした前提に立って、具体的に批評・添削をすすめさせていただきたいと思います。

 

 

一人でも生きていけると強がるが離れてみれば恋しさ募る

                       (原歌)   

 

一人でも生きていけると強がるが恋しさ募る離れてみれば

                      (添削後)  

 

 「一人でも生きていける」と言って「離れ」た相手は、ご家族でしょうか、あるいは恋人でしょうか。いずれにせよ、ストレートな情感が好もしく感じられます。ただ、先に述べた「屈折」を生むねらいから、第四句と第五句を入れかえて、倒置法にしてみました。こうすることで、「恋しさ募る」思いが、より強く読者に伝わるはずです。

 

 

割り込んだ車に立てる腹なだめ静かに生きる人になりたい

                       (原歌)

 

割り込んだ車に立てる腹なだむ静かに生きる人になりたい

                       (添削後)1

 

割り込んだ車に立てる腹さする静かに生きる人になるべし

                       (添削後)2    

 

 二つの添削案について、先に解説致します。どちらも、「三句切れ」にしました。「なだむ」は、「なだめる」の、文語の終止形です。原歌においても一首の意はよく通るのですが、あまりにスムーズに流れすぎるうらみがあります。お送りいただいた三首めでは、「苦しみぬ」と文語も使われていますから、「なだむ」の三句切れで、一度切ったものです。

 が、「なだむ」と「なりたい」の文語・口語併用がすこし気になる部分もあり、さりとて「なりたし」にすると、今度は文語で型にはまりすぎてよろしくない。

 そこで、結句を「なるべし」とし、三句を「さする」としたのが二案めです。さすって「なだめる」ということで、動きを出したというねらいもあります。

 

 

空腹につい耐えかねて手を伸ばし満腹過ぎてまた苦しみぬ

                        (原歌)

 

空腹につい耐えかねて手を伸ばす満腹となりまたの苦しみ

                        (添削後)1    

 

空腹につい耐えかねて手を伸ばすつい食べ過ぎてまたの苦しみ

                        (添削後)2       

 

 この作については、四句の「満腹過ぎて」という表現そのものに、疑問があります。おそらく「満腹すぎる状態で」の意と思われますが、書かれている言葉の上からは、「満腹の状態を過ぎて」と、読まれる可能性もあります(「短歌的な読み方」ではありましょうが)。

 その点についての言葉選びをオーソドックスに修正したのが添削一案め、「つい」をあえて重ねることで、軽快さと面白味を出そうとしたのが、二案めです。


この作者は、素直に心情を詠まれており、とてもよく伝わってきます。この素直さを武器として、屈折・陰翳といったテクニックを徐々に身に着けられるとよいと思います。

 

2015.11.2                                                                                作者:マジャッキー

秋晴れの沈む夕陽にせかされて家族総出で稲刈り終える

                        (原歌)

 

 情景がくっきりと目に浮かぶ、日本人の原風景をも思わせる、好もしい描きかたです。また、農業に携わる方たちの大変さも伝わってきます。手を合わせたくなるような作品です。

 添削に入りますと、上句の「秋晴れの沈む夕陽」がちょっと気にかかります。沈まんとする夕陽に対して「秋晴れ」を持ってくるのは、一考の余地ありと言えましょう。おっしゃりたいお気持ちはとてもよくわかるのですが。また、「夕陽」はもともと「沈みゆく」ものですから、「沈む夕陽」とまで言ってしまうのはもったいないような気もいたします。

 そこで、「秋の日の耀(かがよ)う夕陽」(輝く夕陽、と同じ意味です)とすることで、晴れていることも、夕日が沈もうとしていることも伝わるのでは、と思い、添削案としてお示ししてみます。

 

秋の日の耀う夕陽にせかされて家族総出で稲刈り終える

                        (添削後)1       

 

ただ、前言を翻すようですが、夕陽が「沈もうとしているから」せかされる、そこの言葉の案配に西島様の意図があるとも思われます。もう一点、添削例を挙げて見ます。

 

秋の日の輝(て)る落日にせかされて家族総出で稲刈り終える 

                                      (添削後)2

 

 

小さな芽残暑に耐えて一ヶ月小松菜となりて今朝の味噌汁

                          (原歌)    

 

可憐な小さな芽が、残暑にも耐えて立派な小松菜に育ち、今朝の味噌汁の実になっている・・・。作物を育てるお仕事ならではの、収穫の歓びですね。「今朝の味噌汁」に、その喜びがよく表現されています。

添削ですが、「小松菜となりて」と文語脈ですから、「小さな」ではなく、「小さき(ちさき)」と、初句も文語脈でまとめてはいかがでしょうか?

 結句の「今朝の味噌汁」という体言止め(名詞で終わること)の手法を身につけられたこと、とてもいいと思います。ですが、上句も「一ヶ月」で体言止め、下句の「今朝の味噌汁」でも体言止めだと、ちょっと詰まったような感じがします。「今朝の味噌汁」、とてもいいのですが、あえて「味噌汁飾る」と、動詞にして動きを出してみました。なお「小さき(ちさき)芽」としたので四音となり、助詞の「の」を補いました。また、「小松菜となりて」は八音ですので、「小松菜となり」と、七音に収めました。いかがでしょうか?

 

小さき芽の残暑に耐えて一ヶ月小松菜となり味噌汁飾る

                      (添削後)

 

 

コンバイン稲刈りあとのこぼれ穂にすずめ群がりついばみて飛ぶ

                       (原歌)     

 

 稲を刈ったあとのこぼれ穂にすずめが群がってはついばんで、飛ぶ。稲刈りの情景が、今度はすずめという「役者」を通して表現されています。とても懐かしいような光景で、ほっとします。

 「コンバイン稲刈りあとの」を補足すると、「コンバインで稲刈りを終えたあとの」となりましょう。そこの省略が少々窮屈な読後感を抱かせてしまっているように思えます。私どもは実際に稲刈りをしたこともなく、ましてやコンバインを使った経験も全くないので、こぼれ穂をすずめがついばむのが、「コンバインが動きつつ、そのあとを追って」なのか、「コンバインが止まって稲刈りが終わったあとで」なのか見当がつきません。ですから二案挙げてみます。

 

コンバイン稲を刈りつつこぼれ穂にすずめ群がりついばみては飛ぶ

                        (添削後)1

 

稲刈りのコンバイン止むこぼれ穂にすずめ群がりついばみては飛ぶ

                        (添削後)2   

 

ここで補足的な説明になりますが、下句は「群がり」「ついばみて」「飛ぶ」と3つの動詞が畳みかけるように配置されています。これはこれでいいのですが、もう少しすずめの動きを出そうと、「ついばみては飛ぶ」と、あえて八音にし、助詞「は」を補ってみました。すずめが群れて、つついては飛び、飛んではついばむ感じが出せたかと思うのですが。

 

 

2015.10.23                   作者:中溝幸夫      

 わが大地地球(テラ)から生まれしあの月が今宵輝くスーパームーン

                           (原歌)

 

 「スーパームーン」は、この一、二年、秋の話題を集めている感があります。「地球=テラ」も、なつかしい感じがしますね。私が最初に思い当たったのは、「地球(テラ)へ」という1970年代後半のSF コミック(定義はウィキペディア)のタイトルでした。ただ調べてみると、もともとはラテン語、それゆえ現在のイタリア語ということですから、作者の意図は、奈辺にあるのでしょうか。

 

さて、新しい言葉、ある時期によく使われた(使われている)言葉を用いる場合、読者をどのように想定するかということにも、意を払う必要があります。私たち(小田原、石井)の年代では、「地球(テラ)へ」のイメージが強く、しかし好悪もしくは親疎の度合いは、読み手によって大きな落差がありますから、ある人は賛意を表し、ある人はそうではない、ということが、考えられます。「スーパームーン」も、根本的には同様でしょう。ネットを主とした今の情報環境の中で、スーパームーンを「知らない」人はほとんどいないかと思われますが、やはり好悪、親疎の度合いは、人それぞれであると考えられます。

 

これらのことをすべて「是」とし、批判はすべてご自身と作品が受ける、という態度を貫かれるのであれば、原歌に対して添削の要はないと考えます。

 

しかしながら、それでは「美し言の葉」の責めを果たせませんし、文語脈と歴史的かなづかいを容認される作者なので、あえて「冒険」ともいうべき添削案を、ひとつ提示させていただきます。「テラ」について、「地球」「大地」双方の意があることを含んでの見解でもあります。

 

たらちねの地球(テラ)より生(あ)れしあの月が今宵輝くスーパームーン

                        (添削後)

 

ご承知の通り「たらちねの」は、「母」にかかる枕詞ですから、「地球」にかけるのは反則でしょう。しかし「地球(テラ)」という語を生かした上で、私の解釈が当初の歌意から大きく外れていなければ、作者の力量と個性から考えても、こうした可能性はありうるのかと考えます。

 

 

 逆光の大気の中を眺めやれば蜻蛉の羽キラとひかりぬ

                          (原歌)

 

 この作品については二点、指摘をさせていただきたいと思います。一点目は、「眺めやれば」と六音の字余りになっている第三句です。「眺めやる」の三句切れ、もしくは結句が「ひかりぬ」と文語の完了の助動詞でおさめられていますから、「眺むれば」もありうるのではないでしょうか。

いま一点は、結句の「キラと」のカタカナ表記です。もちろん、どのように表記するのも作者の選択次第ですが、カタカナの「キラ」が気になる読者もいることでしょう。ひらがな表記の「きらと」との比較検証(すでになさっているかとも思いますが)、あるいは他の表現を追求する余地が、あるように思いました。「キラと」の表記はそのままにして、一点目の添削案を二例、掲げておきます。

 

逆光の大気の中を眺めやる蜻蛉の羽キラとひかりぬ

                      (添削後)1    

 

逆光の大気の中を眺むれば蜻蛉の羽キラとひかりぬ

                      (添削後)2    

 

 

 苦瓜のカーテン外すそこに開く窓の景色をなつかしく眺む

                       (原歌)   

          

 いっとき視界を閉じていた苦瓜のグリーンカーテン それを外すと、視界が旧に復した、いい情景だと思います。が、「そこ」の用い方がすこし気になります。この場合こそ、まず文脈的に「外せばひらく」などの方向性が、適切ではないでしょうか(カーテンを外す、そこに開く、と言う動きをねらったものと解されなくはないのですが、二句、三句が動詞のウ段音で終わるデメリットの方が大きいように思えます)。

 

 苦瓜のカーテン外せばそこにひらく窓の景色をなつかしく眺む

                         (添削後)1

 

 二句が八音の字余りになりますが、ひとまず妥当な線かと思います。ただ、結句が「眺む」の文語なので、二、三句の口語脈を文語脈として整合させるためには、以下の案も成り立つと思われます。

 

苦瓜のカーテン外せばひらきたる窓の景色をなつかしく眺む

                        (添削後)2   

                      

 

 一つ目の添削案は口語・文語併在、二つ目は文語にしぼった形になります。より安定的なのは二つ目の方かと思いますが、参考になさってみて下さい。

 


2015.10.13                                                                                    作者:マジャッキー

遺伝子を秘めて育てた子が病んで何故と非難を矢のよう放す


                       (原歌)

<添削のポイント>     

 

 遺伝子のことを明かさず育てたお子様が、その遺伝子による病気になられ、「何故言わなかったのか」という非難を、まるで矢のように放つ・・・。これはお子様が「非難を放」ったのか、世間から「非難を放たれ」たのか、二通りの読み解きが出来ます。大変に重い、辛い作品です。作者の痛い想いも伝わってくるようです。

 冷静に一首の構成から見ていきます。「遺伝子を秘め」は、一般の読者は一読して、作者本人が「遺伝子をひそめ」と言う風に受け取るのではないでしょうか。ですから、ここは「秘め」ではなく、「匿す」の意で、「秘し」とします。すると「育てたる」と、文語の存続の助動詞「たり」の連体形が使えます。また、「病んで」ではなく、「病みぬ」と、上句で切った方が、するっと一首が流れてしまう感をぬぐえます。「何故と」はすこしたどたどしい感じがしますので、「とう」(「という」の意味の文語)を用います。「矢のよう放す」は、「矢のように」と、「に」を補わないと苦しいところです。これらを考えあわせてお示しするのが添削案です。

 

 

 遺伝子を秘し育てたる子が病みぬ何故とう非難矢と放たるる

                       (添削後)1    

 

もし、お子様が「非難を矢のように放つ」ということであれば、

 

遺伝子を秘し育てたる子が病みぬ何故とう非難矢と放ちたり

                       (添削後)2   

 

の方が、より強く伝わるかもしれません。

いかがでしたでしょうか?こちらが状況をうまく理解できていないかもしれませんが、「いかに言いたいことを正確に伝えるか」を苦心することも、短歌の大事な留意点です。

                       

 

病みし子が穏やかな笑みうかべて「宿命だから」と我を慰むる

                        (原歌)

<添削のポイント>

 

 この作品も大変切なく、しかしお子様の強さに打たれる思いです。作品ですが、「病みし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形です。ご病気になられたのが過去に完結したことならよいのですが、「闘病中」であるのなら、存続の助動詞「り」の連体形「る」を用い、「病める」とした方が良いでしょう。「うかべて」が四音で字足らずになっていますので、ここはちょっと直しましょう。「穏やかな」と同じ意味の文語「穏しき(おだしき)」を用います。結句「我(わ)を慰むる」は、終止形でまとめたいところです。結句を終止形にしないテクニックはいくらでもありますが、ここは「慰む」と、スパっと切ったほうが良いと思います。以上の点に留意した添削案が次です。

 

 

 病める子が穏しき笑みを浮かべつつ「宿命だから」と我を慰む

                         (添削後)

 

 

幾度も闘病の子に容赦なく新たな病い医師は告げ行く

                          (原歌)

<添削のポイント>

 

 これはほとんど添削の必要はない作品です。ただ、「闘病の子」という表現が少し乱暴かな、という点が気になります。これは「闘病する子」と、八音になってしまううらみはありますが、「する」を補った方が良いと思います。もう一点、「新たな病」でも構わないのですが、文語でまとめる場合は「次なる病」とする方法があります。しかし、「美し言の葉」では、文語脈だけでなく、口語脈ももちろん大いに認める方針ですので(小田原漂情も石井綾乃も、口語短歌を詠んだこともあります)、必ずしも添削案通りでなくても構いません。最後に結句「告げ行く」ですが、「行く」は告げて去っていく、というイメージがあります。それでよろしかったのでしょうか?私(石井)は、新たな病を告げていく、と解釈したので、「告げゆく」と、「ゆく」をひらがなにしたほうが万全、と思いました。

 

 幾度も闘病する子に容赦なく次なる病い医師は告げゆく

                         (添削後)       

 

 いかがでしたでしょうか?随分細かいことを申し上げましたが、歌会などに出ると、相互批評でそれこそ重箱の隅をつつくような批評をされることもあります。作品は、作者の手を離れたら、どのように読まれても仕方がない、それを回避して「この作品はこう読まれたい」と強く思うなら、推敲に推敲を重ねる。このことは、短歌を志す方は頭の片隅に置く必要が

ありますし、そのお手伝いを私どもはさせていただくつもりでおります。

 

 

2015.9.21                                                                                             作者:中溝幸夫  

 

 今回は、定型に収めることを主眼にまとめられたものと拝察します。しばらくの間、破調、屈折に挑んでおられましたが、「定型」という「初心」に戻されたのでしょうか。そうした「揺れ(揺らし)」は重要なことであり、試行錯誤を繰り返す中で、骨格、あるいは内在律というものが、確立されることでしょう。

 では、一首ごとの批評・添削に取り組みたいと思います。

 

 

1、ひっそりと静まりかえる十和田湖に遊覧船が出発を待つ

                      (原歌)

 

<添削のポイント>

かちっとした定型に収めることは、それ自体困難なことなのですが、一方で、微細な言

葉の使い方ひとつで、印象が強くなったり、弱くなったりもします。

 この作品の場合は、美しくかつ力のある上句に対して、下句がすっと流れてしまうような印象を受けました。わずかな言葉の置き換えで、大きく印象が変わると思います。

 

ひっそりと静まりかえる十和田湖に遊覧船は出航を待つ

                     (添削後)

 

 いかがでしょうか。「が」と「は」を置き換え、「出発」を「出航」としました。「は」と「が」についてはご存じのことと思いますが、ここでは、「は」とすることで、上句の大景から、遊覧船という点景に、焦点が絞られます。

 また、「しゅっぱつ」を「待つ」は、脚韻と取れなくもないのですが、メリット・デメリットを吟味したとき、やはり「出航」として、音が重ならない方に利があると考えました。

 

 なお7月に、「旧かな」(歴史的仮名遣い)を使われるのか否かについて、言及させていただきました。そうであるなら、「ひつそりと」「静まりかへる」が正しい表記となります(今、その時の批評添削稿を確認して、「田植え」について見落としていたことに気がつきましたので、改めてお詫びとともに旧かななら「田植ゑ」であることも、申し添えます)。

 

 

2、霧流る八幡平の草もみじ北国の秋が足早に来る

                       (原歌)

 

<添削のポイント>

この作品は、初句を「霧流るる」と改めるだけで、良い歌になると思います。「流る」

はラ行下二段活用の動詞ですから、原形では終止形で、初句切れとなります。しかし、六音の字余りでも、「霧が流れる八幡平」の草もみじ、である方が、良いでしょう。なお「もみじ」も旧かなでは、「もみぢ」となります。

 

 

霧流るる八幡平の草もみじ北国の秋が足早に来る

                    (添削後)

 

 

3、東北の自動車道の街路樹のナナカマドの葉すでに秋色

                       (原歌)

 

<添削のポイント>

以前、「山陽道」についてあれこれ述べさせていただいたこともありましたが、今回は

「東北の自動車道」、「街路樹」という名詞(固有名詞、普通名詞)の用い方、読みとり方が、批評のポイントになるかと思います。

 というのは、「東北自動車道」では、「街路樹」はふさわしくないという印象が、ぬぐえないからです。ただ東北「の」自動車道とされていますから、三陸自動車道や仙台北部道路など、規模の小さい自動車専用道路で、「街路樹」と言っても障りのない実景をご覧になったのだろうと、推し量ることはできます。

 しかし、読者一般はそのようには受け取らないのが普通ですから、ここは思い切って実際の固有名詞を使うか、あるいはもっと普遍的、一般的な表現にしてしまうか、明確な選択と工夫が必要かと思います。添削と言うよりは、改作例として、二例をあげておきます。

 

  三陸道そのかたはらの街路樹のナナカマドの葉すでに秋色

                        (添削後1)   

 

  ゆく道のかたへに連なる街路樹のナナカマドの葉すでに秋色

                         (添削後2)

 

 下句の「ナナカマドの葉すでに秋色」は、口語脈で新味のあるものとして、是としました。また改作例の一首目の二句・三句は、もし添削希望作として受け取ったら、「街路樹は傍らにあるもので意味が重複している」と私自身が指摘するかも知れません。練りに練ってのものではなく、視点をひとつお示しした、程度のものとしてお読みいただければ幸いです。

2015.9.19                  作者:マジャッキー     

今回は新メンバーをご紹介させていただきます。

マジャッキーさんです。

この作者の作品は、すべてきっちり定型に収められており、とても好感が持てます。

さっそく添削に入りましょう。

 

 

東風に乗り 旅立つ郡に 離れ飛ぶ 小さき一羽 按じ見送る

                        (原歌)

 

 まず、いただいたお葉書から、作者は短歌を一句ごとに分けて書かれるスタイルなのだと拝察いたしました。短歌の表記のありようは、人それぞれで構わないのですが、一句ごとに一字アケすると、漢字の重なりの疵などに、気づきにくくなる弊害も一面にはあります。ですから、私ども「美し言の葉」では、どの方の作品に対しても、添削案を、五句全部を続けて表記する形を取らせていただいております。ご了承くださいませ。

 

<添削のポイント>

さて、最初の作品の添削に入ります。東風に乗って、雁でしょうか、群れ飛ぶ一団から離れて、一羽、飛んでいる小さい鳥がいる。大丈夫だろうか。案じて行方を見守る作者の優しい視線と、おおらかな光景が、大変魅力的な一首です。

 ただ、「郡」の字は、学研の漢和大字典で引いたところ、「郡」→「地方行政区画のひとつ。国の下にあり、町、村、郷を含む。城市を中心に一団をなしてとりまいた村や町。」とあり、大体村や町のことを差すようなので、この字は「群」に改めた方がよいと思います。同様に「按」ですが、「一、おさえる。二、しらべる。三、ひとつずつ順を追って、の意を表す。四、文の初めに付き、考えてみる、の意」であり、四の「考えてみる」が当たらなくもないのですが、ここはやはりふつうの「案」を用いたほうがよろしいでしょう。

 また、「群れに離れ飛ぶ」は厳密には間違いではないのですが、「群れより」のほうが万全かと思います。しかし、「より」とすると、せっかくきっちり収まった定型を壊してしまいますので、「離れ飛ぶ」の方を考えてみたいと思います。「旅立つ」と「離れ飛ぶ」が、歌会の批評などでよく言うところの「即き過ぎ」(つきすぎ)「盛り込み過ぎ」になっている点も気になります。歌材が多く、同じような意味を表す言葉が重複して使われていることを指します。ですから、「離れ飛ぶ」を「遅れいる」に改めました。以上の結果の添削案です。いかがでしょうか?

 なお、添削案はあくまでも一つの「案」であり、お気に入らなければ、ご自分の作品を貫いてもよいのです。ただ、文法、漢字の用例など、ご参考にしていただければ、と思います。

 

 

 東風に乗り旅立つ群れに遅れいる小さき一羽案じ見送る

                          (添削後)    

 

 

亡き父の 育てた目白 放せしも 庭の椿に さえずりて居る

                           (原歌)

 

<添削のポイント>

 これも良い作品ですね。亡くなられたお父様の育てた目白を庭に放したけれども、逃げずにお父様を偲ぶかのように、お庭の椿に木に止まってさえずっている。切なくなるようなお歌です。

 あまりさわるところはない作品ですが、二点、文法上のことに言及します。「育てた」ですが、「た」は口語です。せっかく文語ですっきりとまとめてこられたのですから、ここも文語にしたほうが、歌の座りがいいです。二句の七音を壊してしまいますが、お父様は亡くなられていますが目白は今現在「さえずりて居る」のですから、存続の助動詞「たり」の連体形「たる」を用います。もしかしたら、作者は「たる」を想定されて、七音に収まらないので、あえて「育てた」となさったのでしょうか?しかし、美しい文語の流れがいったん切れてしまうのは惜しく、「美し言の葉」としては「育てたる」にさせていただきました。もう一点、「放せしも」ですが、「し」は過去の助動詞「き」の連体形です。これも、「放した」のですから間違いではないのですが、接続助詞の「ども」(~だけれども、~がしかし)の方が、歌意からもふさうのではないかと思い、添削案としてお示しする次第です。

 

亡き父の育てたる目白放せども庭の椿にさえずりて居る

                          (添削後)

 

 

雑草の 土手に生え抜く すかんぽを 一茎摘みて 故郷偲ぶ

                            (原歌)

 

 ほとんど添削の必要のない作品です。お小さいころでしょうか、すかんぽ(煙草の代用とか、食用にもなる草ですね)を摘んだ故郷が偲ばれる・・・。

しみじみとしたいい作品です。

 一点だけ、「生え抜く」という言葉が気になりました。土手に「生え」たすかんぽが、力強く生き抜いている、という意図はよくわかるのですが、「生え抜き」という成語との関係を、押さえる必要があります。「生え抜き」とは、「その土地に生れて、ずっとそこで成長したこと。はじめから続けてその会社・部署に勤続していることなどをいう。きっすい。」と、『広辞苑』には示されています。特に、解説の後者、また「きっすい」の印象が強い言葉であって、読者はそのイメージに引かれることでしょう。

もちろん、造語なり、独自の表現に挑むことを否定するものではありません。ですが、初読で、かすかな違和感を感じました。ですから、ここはストレートに「生き抜く」としてみました。しかし、必ずしも添削通りではなく、ここは原歌のままでもよいと思います。

 

雑草の土手に生き抜くすかんぽを一茎摘みて故郷偲ぶ

                          (添削後)

 

 

いかがでしたでしょうか?この作者の作品は、文語脈で、ある種の格調高さがあり、とても素晴らしいと思います。これからも、短歌の道を目指す者同士、ご一緒に歩んでいけたら

、と思います

2015.8.14                     作者:中溝幸夫  

   いにしへの修験僧が拓きし登山道白山頂きへの道のりも険し

 

                         (原歌)

<添削のポイント>

 

大きな字余りに挑まれた作品ですが、総計では38音となっており、ここはいま少し、定型に近づけるべき(総計の音数を抑えるべき)努力が必要かと思われます。破調(内在率がある前提で)を積極的に認める読者以外には、総体の字余りが多いだけで全否定されてしまう場合もあるからです。

 下句の10音・8音の字余りは、私は「是」とします。これを生かすためにも、上句はちょっと、考えてみたいところです。

 

 まず、ものすごく単純に上句のみ定型にすると、二句を「僧が拓きし」とすることができますが、これでは下句も生きませんし、作者のご意向もそこにはないでしょう。そこで、「修験僧」を同質、同等の他の言葉に置き換えることで、添削を試みます。

 

                          ↓   

 いにしへの行者が拓きし登山道白山頂きへの道のりも険し

                           (添削後1)  

 

修験者が凛と拓きし登山道白山頂きへの道のりも険し

                           (添削後2)

 

  

 天空をアサギマダラが舞い来る 遠き島よりここ白山へ

 

                           (原歌のまま)

 

「アサギマダラ」と「遠き島」が、この歌の眼目であり、また批評上の注意点です。実は私自身、アサギマダラを大まかに知っていて、「渡り」の習性についてまでは、よく知りませんでした(その意味では、今回勉強させていただきました)。

 もちろん、この作品を読んで、「ああ、アサギマダラとは、遠い島、おそらく台湾あたりから、日本まで飛んでくる蝶なのかな」と、読みとってはいます。今回、Webで調べて勉強したのは、「遠き島」がたしかに台湾であり得るのだという、その確認です。知識としてはゼロに等しい私がそのように読んだのですから、原歌にそれだけの力があること、そして大きく添削をする必要がないことを、感じています。

 ただ、読者みながそのように読みとりうるかという点については、一考の余地があるとも思われます。まず一つ、事実、背景としての「遠き島」がいずこであるのか(台湾でなくとも良いのですが、どこか、アサギマダラの習性を多くの読者がイメージしやすいであろう島の固有名詞を盛り込むなど)、想像させる材料をちりばめる工夫もできるのではないでしょうか。

 固有名詞と普通名詞、個別と一般ということについて、ちがうことをお伝えしたことがあるかも知れません。が、文学作品というものは、大きな矛盾を除いて、一期一会、その刹那ごとにつきつめることがその基本でもあります。

 

 この一首については添削をするのでなく、以上の指摘にとどめさせていただきます。いま一点、前述のことよりは小さな問題ですが、「舞い来る(まいきたる)」という表現からは、「天空より」、舞い来る、というイメージがあることを、補足致します。また旧かなでは「舞ひ」であること、蛇足かも知れませんが。

 

 

    白山に高嶺の花の数多しハクサンコザクラの薄紅も美し

 

                           (原歌)

<添削のポイント>

 

はじめに結句の「美し」について、「うつくし」と読むのか、「はし」と読むのか、その点が気にかかります。「はし」と読むのであれば、四句が9音の(されど「ハクサンコザクラ」が半拍を含むのであまり瑕がない)字余りで、よくまとまっていると言えます(作者註:「美し」は「うまし」と読む意図・・・)。

ただ、上句で白山の高所に数多の高嶺の花があることを言い切り、その中の「ハクサンコザクラ」の薄紅に焦点を当てるという詠みぶりは、作者自身の経験的感懐から、より広く、多くの読者を引き込むところまでの飛翔を望むのには、弱いように思われます。

特殊(個別)から普遍へ赴き、多くの読者を惹きつけるところに、物書きの、あるいは詩歌の醍醐味があるということを、わたくしもともに追ってみたいと思います。

 

                           ↓

 

白山の高嶺に爆ずる花の妙(たへ)ハクサンコザクラの薄紅も佳き 

 

                           (添削後)    

 

 「爆ず(口語でははぜる)」が国語辞典の解説の字句通りではないのですが、「たくさんの花が山の高処に咲きほこる」意をあらわすものとして、読みとってもらえないということはないと思います。参考になさってみて下さい。

 


2015.7.22                   作者:中溝幸夫  

 透かし見る薄紙の如き手触りの白き槿の花びらを揺らし


                           (原歌)

<添削のポイント>

                        

結句「花びらを揺らし」で「余韻、余情」をねらったものかと思います。花びらを「揺ら」す主体は、槿でしょうか、あるいは作者でしょうか。作者だとすれば、一首が口語的に流れてしまい、淡い印象を残すのみとなりますので、主体は槿で、「槿の」の「の」は主格をあらわすもの、と考えてみました。

 

 すると上句の「透かし見る薄紙の如き手触りの」の「透かし見る」に、「槿」をとらえている作者(あるいは人間全般)の「見る」という行為があり、そこから読者の想念が形づくられていきますので、結句のおさまり具合がやや弱いうらみがあります。この点をまず解消するのには、「槿は」と係助詞「は」によって「槿」が主体であることを強め、結びはオーソドックスに終止形にする手段があります。


                          ↓     

 

透かし見る薄紙の如き手触りの白き槿は花びらを揺らす


                          (添削後1) 


 

 しかし、余韻・余情を盛り込み、白く透き通る槿の花びらがわずかに揺れる、という情感を歌い切れているとは言えません。もしかすると逆にここから、原形を推敲なさったのかもしれない、とも思えます。そこで、やや大胆な改作ですが「花びら」は言わぬこととし(上句の表現で花びらであることは言えている、と割り切ります)、次のような例を挙げることができますが、いかがでしょうか。

 

 透かし見る薄紙の如き手触りの白き槿は風に揺れ居り

                           (添削後2)

 

透かし見る薄紙の如き手触りの白き槿は風に揺れつつ

                          (添削後3) 

 

 

 田植え済み水の張られた田んぼにはライムグリーンの風駆け抜ける


                           (原歌のまま)

 

 どんな言葉を用い、どのような付属語(助詞・助動詞)でそれをまとめていくかという微妙なさじ加減を、「言葉の斡旋」と呼んでいます。この作品の情景は、私も大変好きな情景であり、日本の原景のひとつであると思います。どこをどう直す、という指摘(すなわち添削)はないのですが、上句は言葉の斡旋しだいで、さらに磨かれる余地があるように思います。

 

 それだけでは無責任ですから、ひとつ単語を提示させていただきますと、「水張り田(みはりだ)」という言葉があります。広辞苑には出ておらず、Yahoo!などで検索してみると、「田植え前の、水を張った田」というような解説も見られますが、田植え後の田の形容としても、さしつかえはないと思います(私はどちらにとっても良いつもりで、自作の短歌に使ったことがあります)。ご存じであれば、「田植えのあと」をはっきり言うために原歌の表現にされたのかと思いますが、短い言葉を用いて省略を利かせることで、他の素材を盛り込むことも可能になります。一例として、お伝え致します。

 

 

 ここはプール曇りガラスの屋根を抜けて水面に揺れる光のしずく


                            (原歌)

<添削のポイント>

 

 初句「ここはプール」という場の提示に、ひとつのねらいを込めておられるかと思います。しかし、読者によってその評価は、分かれるところでしょうか。新しい、あるいは独自の試み、取り組みをすることは、たいへん重要なことですが、「定型と破調」に大きな成否の境界があるのと同様、新機軸を打ち出す場合にも、困難が伴います。試行錯誤の上に成果がもたらされる過程を、私も通り過ぎました。

 この作品に関しましては、私だったら「場」を「時」に代えて提示すると思います。その添削案を二案、提示させていただきます。なお、作者は旧仮名をご使用でしたでしょうか?それでしたら、旧仮名では「しずく」は「しづく」が正しいので、改めさせていただきました。もし違いましたらお読み捨て下さい。

                           ↓    

 

午後のプール曇りガラスの屋根を抜け水面に揺れる光のしづく

                           (添削後1)

 

初夏のプール曇りガラスの屋根を抜け水面に揺れる光のしづく

                           (添削後2)  

 

                         

2015.7.16                    作者:文ちゃん

蒸し暑い満員電車「どうぞ」言う可愛いい声にそよ風走る


                         (原歌)

                       ↓


蒸し暑い満員電車「どうぞ」と言う可愛いい声にそよ風走る


                          (添削後)

<添削のポイント>

 結句の「そよ風走る」が大変良いと思います。蒸し暑い満員電車でうんざりしているときに、席をゆずる「どうぞ」という、これは女の子さんでしょうか、可愛らしい声にそよ風が走る感覚を覚えた・・・。いい歌想ですね。一点、「『どうぞ』言う」についてですが、私ども関東の人間の語感からすると、ここは、「どうぞ」のあとに「と」を補った方が、おさまりがいいように思われます。一応、添削案としてお示しします。

 もちろん、三句が6音の字余りになってもその方が良い、と考えてのことです。

 

ただ、西日本、近畿から中国・四国あたりでは、この「と」は用いず、「『どうぞ』言う」○○、という表現がふつうであるらしいことは、私どもも承知しています。九州でも、やはりそうなのでしょうか。私(小田原)は両親が鹿児島の出身ですが、「からいも普通語」を聞きかじった程度で、このように微細なところまでは把握しておりません。作者の居住地によって言葉の使われ方に差異がある以上、一概に「『どうぞ』という」が良い、とは、言い切れません。

 

しかしながら、慣例であるのか、限界であるのか、文学の批評も「共通語」を基準として行なわれていることも事実ですので、その意味でも、「添削案」として、上記案はありうるものと言えましょう。要は、特徴のある言葉をいかに生かし切るか、ということが、大事なのだと考えます。

 

 

  猛暑日に娘家族と多摩の森カブトムシ出で暑さ忘れぬ  


                         (原歌のまま)

 

これは添削の必要はないお歌だと思います。娘さんご家族と多摩の森に行かれ、猛暑日だったが、カブトムシを見つけたことで暑さを忘れる・・・。結句の完了の助動詞「ぬ」も効果的です。

 

 

 アドバイス本人のため思えしも逆キレされて波打つ吾は


                         (原歌)

                        ↓

 アドバイス本人のためと思えども逆ギレされて波打つ吾は


                          (添削後)

<添削のポイント>     

  これも結句がいいですね。「波打つ」・・・動揺する、感情が高ぶる、感情の揺らぎを覚える。いろいろなイメージが湧きます。ただ、一首目と同じことが言えるのですが、「本人のため思えしも」についても、「ため」のあとに「と」を補うのが良いと思います(二句が8音の字余りでも、というのも同様です)。

 

また、「思えし」の部分には、次のような(主に文法上の)問題点があります。

 

原型「思えし」で用いられている「し」は、過去の助動詞「き」の連体形で、文語のものです。しかし、「思え」の部分は、「自分にはそう(本人のためと)思えた」ということで、口語における自発のような意味だと思われます。ただ、ややこしいのですが、「思える」は口語での「可能動詞」であり、「思はる」→「思われる」→「思える」として、一語の動詞として独立したものです(思はる、思われる、は動詞+助動詞)。そして、これは「可能動詞」として「可能」の意にのみ用いられるとされていますが、こうしてみると、「思える」には、「可能」と「自発」、双方の意味が、あいまいな境界で含まれていそうですね。

 

もとより文法、とくに口語にはあいまいなところが多いのですが、作者の今回の作品の場合、口語の「思える」と、文語の「き(し)」をあわせて使うことは、避けた方が良いと考える次第です。

 「思えども」は、ストレートに「思う」に過去の「き(し)」を加え、「思いしも」とする手段もあります。また、「逆キレ」ははやりの若者言葉ですが、「逆ギレ」が正確なのでは?と、ちょっと余計な指摘をも含めました。

 

 

 真夏日に父が眠れる靖国に娘家族と平和願いて


                          (原歌)

                         ↓

  真夏日の父が眠れる靖国に娘家族と平和を願う


                           (添削後)

<添削のポイント>

 こうべを垂れたくなるようなお歌です。「靖国に眠る」という感じ方、今の若い方にはピンとこないかもしれませんね。さて、まず助詞「に」が二つ重なっていることが気になります。もう一点、結句の「平和願いて」の収め方だと、うまく座らない、着地しない不安定さがあります。そこで考えた添削案です。

 


  教え子も高齢となり青春の思い出より老後の憂い


                          (原歌)

                         ↓

 教え子も高齢となり青春の思い出よりも老後の憂い


                          (添削後)

<添削のポイント>  

 作者よりお若い教え子の方も、高齢と言われるお年になられているのですね。老後の憂いが話題になるところ、私どもにもなんとも身につまされます。四句が「思い出より」と六音で字足らずなので、「思い出よりも」と、助詞「も」を補いましょう。あとは、少しウイットの効いたよいお歌だと思います。

 

 

 


2015.6.25                     作者:中溝幸夫


 

山道の落ち葉の上の木漏れ日を踏みしだきつつひたすらに歩く

 

                       (原歌)

                      ↓

山道の落ち葉の上の木漏れ日を踏みつ眺めつひたすらに歩く

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

 落ち葉ではなく「木漏れ日を踏みしだ」くところに、良い着眼と決意(作歌に対する)とが読みとれます。上句の「の‐の‐を」のリズム、山道の「ち」と落ち葉の「ち」の韻も、よく生きています(特に後者は、最初から狙えるものではなく、「良くおさまった」という成り立ちで、いいと思います)。そして下句も、よくまとめられているのですが、四句の「踏みしだきつつ」にのみ、再考の余地がありそうです。

 というのは、「踏みしだく」を広辞苑で調べてみると、「①ふんでこなごなにする。②強く踏んでしわにする。」とあり、踏みつける行為を継続する意が、そもそもその語中にあるものと受けとめられます。その「踏みしだく」と、継続・反復の意である接続助詞「つつ」が重なるところに、疑問を感じる読者もいることでしょう。この見地から、示した添削案です。

 

野薊の群れ咲く里の山道の紫恋ひて故郷を訪ふ(とふ)

 

                          (原歌)

                        ↓

野薊の群れ咲く里の山道のむらさき恋ひて故郷を訪ふ(とふ)

 

野薊の群れ咲く里の山道の紫を恋ひ故郷にあそぶ

 

                           (添削後)

<添削のポイント>

「紫“を”恋ふ」の格助詞「を」を省略しているところが、ちょっと気になります。散文と韻文では、省略の必然性を含めて事情の異なる部分も大きいのですが、小田原自身の実例に即してお話しします。「足摺岬」という文章で、次の一文を書きました。

 しかしこの南の国の小麦色の女性車掌は、動作もきびきびしていて中々かわいらしい。

 四半世紀前の若書きのもので、申し訳ありません。当時はこれで問題ないと思っていましたが、近ごろこの文を読んだり、思い出したりするにつけ、やはりこれは小麦色の「肌の」女性車掌であるべきだと、自分ながら思うところです。

 表現形式も、対象も全く異なりますが、「紫恋ひて」の四句に、この拙文の例と同様の「何か足りない感じ」を、受けるのです。これは、「むらさき」とかな書きにするか、「紫」のあとに「を」を補うことで、解決できるのではないでしょうか。

 

麦秋のまじかきときに畔歩く黄のキャンバスに影を動かし

 

                           (原歌)

                         ↓

麦秋のまぢかき畔を歩みゆく黄のキャンバスにわが影ゆるる

 

                            (添削後)

<添削のポイント>

まず、かな表記について指摘させていただきます。新かな(現代かな遣い)、旧かな(歴史的かな遣い)を問わず、「まじかき」は「間近き」なので、「まぢかき」と表す必要があります。

 

 また結句について、倒置法を用いた上での連用形止め(連用中止法)を否定するものではありませんが、原歌では因果関係が完結しすぎている感があり、ふくらみが欲しいように思われます。結句で余韻を生むために、このようにしてみました。終止形でまとめるなら、「わが影は揺る」とするところですが、それよりも、特に係り結び等の因果関係はなくても連用形で止めるこの形で、よいと思います。原歌とは、狙うところが少し変わってきますが、ご一考頂きたいと思います。

 

2015.6.25                                                                              作者:文ちゃん


 

夏空に教え子たちとゴルフして50年前にタイムスリップ

 

                    (原歌)

                    ↓

 

夏空に教え子たちとクラブ振る50年前にタイムスリップ

 

                     (添削後)

 

<添削のポイント>

のびやかないい作品です。ただ「ゴルフして」と上句が下句に続き、「タイムスリップ」という体言で止めると、流れが唐突に止まってしまう感があります。ここは上句で一度切った方がいいと思われますので、「クラブ振る」と表現してみました。 

 

初夏の朝妻と二人で畑仕事鶯がきて愛を奏でる

 

                      (原歌)

                      ↓

 

初夏の朝妻と二人で耕せば鶯がきて愛を奏でる

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

なんとも羨ましい光景です。鶯まで作者と奥様の仲の良い畑仕事を祝福しているようです。ほとんど添削の必要はないのですが、「畑仕事」の六音がやや気になります。ちょっと語感が異なりますが、「耕せば」に改めてみました。  

  


2015.5.29                                                                              作者:文ちゃん

①ジャカランタ、アンテナ被いしザアーザアー画 気になりつつも花に魅せられ

 

                       (原歌)

 

                    ↓

ジャカランタ、アンテナ被いてザーザー画 気になりつつもテレビより花

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

 

 意味はよく分かる作品です。ジャカランタ、またはジャカランダは高木科の、密に繁茂する植物。そのジャカランタにテレビのアンテナがおおわれてしまい、砂嵐のようなザーザー画面になってしまった。にもかかわらず、気になりつつも花に魅せられて切ることもできない・・・。面白い歌想です。ただ、「被いし」の「し」は過去の助動詞ですので、「被いて」といたしましょう。「ザアーザアー」は面白いオノマトペですが、六音になってしまうので、残念ですが、「ザーザー」と四音にし、「画」を生かしましょう。結句の「気になりつつも花に魅せられ」は文字通り魅力的なのですが、「ザーザー画」をテレビとはっきり分からせた方がいいと思います。そうしたことを考えた上での添削案です。

 

 ② 早い朝脚立に乗りて梅とれば子らに送ると写メする妻が

 

                        (原歌)

                    ↓

早朝に脚立へ乗りて梅とれば子らに送ると妻が写メする

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

 

お子さんに送るための、梅の実を取る作者の姿を写真に撮られる奥様、取った梅の実もお子様に送られたのでしょうか?暖かな視線が伝わってきていい作品です。ただ、「早い朝」の表現は少しこなれていない気もします。「早朝」でよいのでは?それと結句の「写メする妻が」の倒置法ですが、倒置法が威力を発揮する詠み方もあるのですが、ここは、少し安易に使ってしまったかな?という印象です。「妻が写メする」でよいのではないでしょか。

 

③ 遺児そろい戦後70年高野山父への感謝平和を願いて

                      (原歌)

                     ↓

 

遺児そろい戦後70年のいま 高野山にて父に感謝す

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

 お父様を戦争で亡くされ、平和を願うお気持ちがひしひしと感じられます。ですが、少々「盛り込み過ぎ」で、この一首にこれだけの歌材を盛り込むのは少し無理があるかと思います。「父への感謝」と「平和を願いて」どちらかを諦めざるを得ません。そこで、「父への感謝」の方を撮りました。

 

かなり大胆に原歌を改めました。ご不満かもしれませんが、できるだけ作者のお気持ちを大切に添削したものです。

 

 ④ ヤダヤダと3歳の俊あやすことままならぬ吾妻に目くばせ

 

                       (原歌)

                      ↓

ヤダヤダと3歳の俊むずかりてままならぬわれ妻に目くばせ

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

 

 

微笑ましい光景です。お孫さんをあやしてもむずかってしまう、そこでアイコンタクトで奥様に助けを求める・・・。いいお歌です。ただ、「ヤダヤダと」が「あやすこと」に着地しない感もありますので、その点を改めました。

また、「吾」「と「妻」、漢字が重なるので、「われ」と仮名表記にしました。

 

 

2015.5.22                                                                                     作者:中溝幸夫

    緑なす山陽道を抜け来れば処どころに桐の花ひらく

                 (原歌)

<添削のポイント>

 

 一読して、若山牧水の、<幾山河・・・>の歌を思わせるものがあります。しかし結句で「桐の花」という点景に焦点を絞り、独自の情景を得ていますね。山の緑が濃い中に桐の花がところどころひらいている、という明るさが、印象的です。

 

 「処どころ」の用字は、苦心なさったものと思います。率直に私(小田原)の好みでは、または自分の歌の場合、「ところどころ」と、すべてをかなにするかと思いますが、ここは作者が「選び抜いた」表現であるならば、好み、センスの部分のことですから、読者の感覚ではなく、作者の信念が優先されるべきところだろうと考えます。

 

 他に、この作では2点、気になったことがありますので、指摘したいと思います、この作者の作品は、投稿時からきびしい言葉選びを経たものでありますから、当方も精一杯、真正面から正対した上での指摘です。その2点とは、「山陽道」という大景と「桐の花ひらく」との対比、そして、結句の八音についてです。

 

 じつは、ここまで批評を進めて来て、「山陽道」は「山陽自動車道」のことかも知れない、と気がつきました。はじめは、漠然と「中国地方の道」と感じ、山あいの道を「抜けて来た」ことから、牧水の歌を思ったのです。そしてまた「山陽道」という言葉は、古く五畿七道の一道として、播磨から長門までの広い地域、現在で言えば「山陽地方」を指すものでもあります。この「広い地域」の「山陽道」を読者が先にイメージしてしまうと、「桐の花」の点景が、ちょっと像を結びにくくなるように思います。

 

 結句の八音については、推敲を重ねられた上のことと拝察しました。ここで、字余り=破調について、(3)とあわせて扱わせていただきたいと思います。

 

(3)とりどりの緑重なる山襞に瑞々しき地球を改めて思ふ

 

 (1)「緑なす」の歌の結句の字余りは、「八音」です。そして(3)「とりどりの」の歌の字余りは、四句が「十音」、五句(結句)が「八音」です。ここで端的に申し上げて、私(小田原)としてはどちらの字余りに好感が持てるかと言うと、後者になります。

 この問題にいわゆる「公式」はないのですが、字余りを字余りで受ける時に、あるまとまりが生じるということを、経験したことはあります。自作の引用で恐縮ですが、お伝えしたいと思います。

 

 かつてわれのすべてがありし駅の跡にしろじろとアメリカ花みづき咲く  漂情

 

 初句、三句が六音、そして四句が九音の字余りです。上句が五七五の十七音定型なら、四句の九音は受け入れられにくいと思いますし、四句から結句にかけて「アメリカ花みづき」を句割れ・句またがりにしたことも、歌会参加者から、「この歌の字余りはあまり気にならない」と支持されたことの一因だろうかと考えます。

 

 もちろん、これは「一例」に過ぎないのですが、(1)の結句のみの字余りより、(3)の十音・八音の字余りを、私はより応援したいと思うのです。

 

 ただ、(1)の作品に対するここまでの批評は、すべて、「山陽道」の解釈の違いによって生じたことのようにも思われます。「山陽自動車道」として「山陽道」を受けとめると、結句の八音をも含めて、よい出来栄えの歌であると感じられます。

 

 ある言葉(ここでは「山陽道」)の解釈で、受けとめられ方が違ってしまう、ということを避ける案として、(1)の添削を試みます。

 

緑なす山陽道を走り来つなだりにほどろ桐の花見ゆ

 

                      (添削後)    

 

 原歌には原歌のよさがありますが、こうすることで、「山陽道」の意味は限定できる(山陽自動車道ならば)と考えます。「なだり」は「斜り」、「ほどろ」は先日の私どもの歌会で石井が用い、批評でも取り上げましたが、ここでは「まばら」の意で使えるかと思います。

 

 つづいて順序が前後しますが、(3)の鑑賞をしてみます。

 

(3)  とりどりの緑重なる山襞に瑞々しき地球を改めて思ふ 

 

                       (原歌のまま) 

 

 この歌は、下句が出色のものと言えます。情景は(1)とほぼ同じか、時間的に近接している、中国地方の山あいのそれだと思われますが、こちらではしたたるような山の緑を、「瑞々しき地球」と大きくとらえ、その大きさを、先述した十音・八音の破調がどっしりと受け止めています。また「とりどりの緑」が、桜の季節から新緑へ移行する時期の山の姿を、あざやかに描いています。濃い緑の中にちらばる明るい薄みどりの木々の色合いまで、目に浮かぶようです。この作品は、添削の必要がない、完成された作品でしょう。

 

 

            山道に散り敷く桜の花びらがさながら満点の星屑にも似て

                         (原歌)

 

<添削のポイント>

 

 最後になりました。この作品は、(3)とは逆に、下句に再考の余地があります。短歌一般のこととして、「・・・・・て」と、接続助詞の「て」で一首を締めるのは、あまり好ましくないと言われます。言い切ったあとに余韻、余情を生むのでなく、流れて視点が定まらないためだろうと考えます。

 

 また、短歌は三十一音の短詩ですから、直喩で「似る(似て)」「ごとし」などの語を使うのは、字数(スペース)の点からも、もったいないという点も指摘できます。

 

 これらのことから、原歌の意を活かして添削を試みたのが、以下のものです。

 

              山道に散り敷く桜の花びらがあたかも満点の星屑かと見ゆ

 

                          (添削後)

 

 「さながら」も「あたかも」同様、直喩(「ごとし」など)を導く呼応の副詞ですが、「見ゆ」を用いるためには、語調が強いのでここでは適当だろうと考えました。また、より「隠喩」の形で言い切ってしまう方法もあるでしょう。

 

山道に散り敷く桜の花びらが美()しきよ満点の星屑と見ゆ  

 

                           (添削後)

 

 以上が今回の作品に対する批評、添削です。

 

 

2015.4.13                                                                                    作者:中溝幸夫

この作者は、五句三十一音に歌材を収める、という点では十分なものをお持ちであり、今回も添削というよりは、歌全体の「ゆとり、ふくらみ」、あるいは「あそび、たわみ」を取り込んでゆかれることで、さらに作歌の幅が広がるであろうという観点から、ご提案をさせていただきました。

 

     ブナの樹の冬越しの枝芽吹く春山麓の森に残雪在りて

 

                       (原歌)

                   ↓

 

   ブナの樹の冬越しの枝の芽吹く春山麓の森に残雪在りて

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

最初に記したとおり、「三十一音におさめる」という意味では「ここを直さなければ」というものはありません。ただ読後感として、

1、「冬越しの枝」「芽吹く春」が、ちょっと並列のような印象を受けること。

2、すべての歌材が「五七五七七」にまとまりすぎていて、ふくらみに欠けること。

が挙げられます。そこで、助詞を一音挟んだのが添削例です。そのことで、ふくらみや余韻がでると思われます。

 

     山深きブナの巨木の在るところエンレイソウの花育ちおり

 

                        (原歌のまま)

 

この作品に関しては、先述の点を踏まえても、添削の必要はないと思われます。「山深き」と「エンレイソウ」がよく響きあっています。

 

      八重桜咲く山麓の春景色遥かに見ゆる大山の雪

 

                         (原歌)

                    ↓

  

   八重桜咲きて山辺の水ぬるみ遥かに見ゆる大山の雪

 

                          (添削後)

<添削のポイント>

よく三十一音にまとめられておりますが、一首全体が「春景色」を描いており、麓は春の景でありながら、遠い山のいただきは雪を残している、その「叙景」そのもので、作者の述べたいところを言い切ることが適当ではないかと思います。それを踏まえての添削案です。

 


2015.3.20                    作者:文ちゃん

     毎木は孫らとプールバアバ自慢カレーライスで幸せいろに

 

 

                       (原歌)

                ↓

木曜は孫らとプールバアバ自慢のカレーライスで幸せいろに

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

とても幸せそうな情景が伝わってきます。「毎木」は「木曜」でも読者には十分伝わると思いますので、省略語はできるだけ避けたほうがよいでしょう。また、「バアバ自慢」と頑張って六音に収められましたが、やや舌足らずな感じも致しますので、ここは七音を恐れず、助詞「の」を入れて、「バアバ自慢の」とした方がよいと思います。

 

     古希過ぎの同窓会物忘れ病気の話題楽しく哀れ

 

                        (原歌)

                ↓

古希過ぎの同窓会は物忘れ病気の話題やがて寂しき

 

盛り上がる同窓会は物忘れ病気の話題やがて寂しき

 

                         (添削後)

<添削のポイント>

まず、「同窓会」は六音なので、助詞「は」を補い、「同窓会は」とします。「哀れ」「悲し」「寂し」などの詠嘆の言葉は、言わなくても感じられるようにするのが短歌のテクニックの見せ所です。添削案一は、「やがて」ということで、「その前は楽しかった」ことを暗に示せると思い、用いてみました。二案は、「古希過ぎの」と言いたいところですが、「物忘れ病気の話」で、お年を召された方の会話とわかりますので、考えたものです。

 

     寒椿真っ赤に燃え咲き朝日浴びその名のごとし浄蓮の滝

 

                          (原歌)

                 ↓

寒椿真っ赤に燃えて朝日浴ぶその名のごとし浄蓮の滝

 

                         (添削後)

<添削のポイント>

「寒椿」「燃え」「咲き」「朝日」「浴び」「浄蓮の滝」と歌材が多いので、少し整理します。「咲き」は「寒椿が真っ赤に燃え」と言った時点でわかると思いますので、「寒椿真っ赤に燃えて」としてみました。「その名のごとし」は「寒椿」にかかるのか、「浄蓮の滝」にかかるのか少し分かりにくいです。ただ、「その名のごとし」が「寒椿」にかかるとすると、「浄蓮の滝」が浮いてしまいます。そこで、作者は浄蓮の滝を観に行って、寒椿を見た。そして浄蓮の滝は、寒椿が表すように、そして「浄い蓮の滝」というように、清々しく美しいものだと感じた・・・と、解釈いたしました。また、寒椿の赤が、浄蓮の滝の淨らかさを際立たせている、とも取れます。そうすると「浴び」ではなく、三句で終止形「浴ぶ」とし、ぴしりと切ったほうが分かりやすいと思います。

 

今日は新メンバー、中溝幸夫さんの作品をご紹介します。

 

2015.3.14             作者:中溝幸夫

 

  ① 木曽川の蛇行してゆく彼方には 白く輝く山見ゆるなり


                               (原歌)   

                    

                  ↓   

      木曽川のくだり来れる彼方には白く輝く山見ゆるなり

 

    木曽川の蛇行してゆく彼方には鈴鹿の嶺ぞ白く輝く

 

                      (添削後)

 

<添削のポイント>

大きな情景を、しかも美しく描いておられます。中部地方の景観として、たいへん魅力的な情景と思います。ただ、「川の流れ」は,上流から下流へ向かうものと、「言葉」が語ってしまいます。実際の川の「水の動き」を度外視すれば、「蛇行してゆく」はるかかなたに、源流部の白い雪山が姿を見せていて、不思議はないのですが、読みなれた読者には、この点で「違和感」が生じるでしょう。

 あるいは、「白く輝く山」とは、養老山脈か鈴鹿山脈でしょうか。そうであるならば、上記の批評は「的外れ」になりますが、「白く輝く山」と言う言葉から、中央アルプス、またイメージとして北アルプス、あるいは御嶽を想う読者も、少なからず存在することでしょう。添削その一は、山が上流の山である場合に対して、その二は下流の山である場合に対してです。特にその二は、固有名詞を用いることで、視点と川の動きを明確にするねらいがあります。

 

     移りゆく車窓に見ゆる景色には 山懐の村に積む雪

 

                       (原歌)

 

                  ↓

 

    移りゆく車窓にしんと映ずるは山懐の村に積む雪

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

この作品は、三句の「景色には」がポイントとなります。これをそのまま生かすならば、結句は体言止めでなく、動きのある表現がよいでしょう。ただ、「山懐の村に積む雪」という下句の描写がとても良いので、三句を動かしてみました。

 

     直江津へ向かふ列車を待つホーム 風の冷たさに北国ぞ知る

 

                        (原歌)

 

                   ↓

 

    直江津へ向かふ列車を待つホーム風冷たきに北国を知る

 

                         (添削後)

<添削のポイント>

上句は問題ないと思います。ただ、四句の「八音」と、「北国ぞ」の係助詞「ぞ」を用いた係り結びが、やや効果的でない気がします。そこで、「風つめたきに」と七音でまとめ、「北国を」としてみました。

 

 

 

 

 

 

 

2015.2.16                                                         作者:文ちゃん


 

     単身の夫気づかいつ子育てや仕事チョボラに駆ける英理子は

 

 

                       (原歌)

                ↓

 

  単身の夫思いつつ子育てや仕事ボランティアと駆ける英理子は

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

今回はご家族がテーマとのこと。「気づかいつ」の「つ」(完了の助動詞)で、ぴしりと二句切れにしたところは良いのですが、三句以降のつながりから、「英理子」様は単身赴任のご主人を気づかい「つつ」子育て、お仕事、ボランティアに駆ける、なのだと思われます。内容的には二句切れでなくともいいのですが、「気づかいつつ」では字余りになってしまいますので、「思いつつ」としてみました。「チョボラ」は「ちょっとボランティア」の意。便利な省略語ですが、短歌に使うのは、少し俗っぽくなってしまいます。ですから、せっかくきっちり定型に収めていますが、あえて字余りを覚悟して「ボランティア」としました。

 

      今でしょと10数年の教師やめ子らの母(もと)へと二女悩めしも

 

                        (原歌)

                ↓

 

今でしょと十数年の教師やめ子らの母へと還らんとする

 

                         (添削後)

<添削のポイント>

「今でしょ」ははやり言葉ですが、作者のユーモアと考え、ぎりぎり「あり」とします。

「10数年」は漢数字の方が良いと思います。母に(もと)とルビを振るのも厳しいところです。なくても(「はは」と読んでも)十分に意は伝わりますので、添削案ではルビを取ってみました。結句「悩めしも」ですが、「今でしょ」の初句の決意と「悩む」が少し整合性に欠けます。ですから「還らんとする」に改めました。また、「悩めし」については、文法上、次に述べる通りの不具合があります。

まず、「し」は、過去の助動詞「き」の連体形です。そしてこの助動詞「き」は、前にくる動詞の連用形に接続する決まりがあります。いっぽう、「悩む」はマ行四段活用の動詞です。以下のように活用します。

 

「悩ま」-ず 「悩み」-たり 「悩む」 「悩む」-とき 「悩め」-ども 「悩め(!)」

 

活用形は、順に、未然―連用―終止―連体―已然(口語では仮定)-命令 です。

というわけで、「悩めし」は、「悩みし」と修正する必要があります。またご家族のことを歌った歌に「二女」の名称が抜けてしまうのは考えどころですが、一首にあまり多くの歌材を盛り込むのは無理があるので、あえて取ってみました。

 

    3女真紀2歳、1歳の子育てに苦闘しつつもかわいい写メが

 

                       (原歌)

 

                 ↓

 

  三女真紀2歳、1歳の子育てに苦闘しつつもかわいい写メ寄す

 

                        (添削後)

<添削のポイント>

二首目で「二女」とあるので、ここは漢数字で「三女」としたほうが良いと思います。「2歳、1歳」は八音で字余りですが、「いっさい」の「いっ」が促音ですので、気になりません。作者は短歌づくりにも慣れてこられたので、結句の収め方もそろそろ留意されても良いかと思います。「写メが」という収め方はともすれば中途半端に感じられます。八音で字余りですが、「写メ寄す」としてみました。

 

    誕生日薄紅色のシュクラメン妻頬よせて恋色染まり

 

                         (原歌)

 

                 ↓

 

  誕生日薄紅色のシュクラメン妻は頬よせ恋色に染む

 

                          (添削後)

<添削のポイント>

とても素敵な歌だと思います。ただ、下句が少しつづまり気味になっているので、「妻は頬よせ恋色に染む」としてみました。「染む」は古語ですが自動詞なので、「染まる」と同義です。三首目の結句のすわりを、ここでも考慮してみました。

 

    孫の萌絵体操競技1位なり冷たき床に笑顔弾ける

 

                         (原歌のまま)

添削の必要のない歌です。ただ、「冷たき」と感じていらっしゃるのは、お孫さんの萌絵さんでは?重箱の隅をつつくような批評ですが、それをご覧になっている作者が「冷たい」と感じていらっしゃるような言葉運びであることに、少し不合理を感じます。それとも、作者も冷たい体育館に座って見ていて、「冷たい」と感じておられるのでしょうか。歌会などに参加すると、そういうところに突っ込まれることもある点、頭の片隅に置いておいて下さい。

 

                        

2015.2.11                 作者:綾

今日は新メンバー、綾さんの作品のご紹介から始めたいと思います。

 

鈴なりのレモン輝く雨上がり小鳥にぎわうおもいのままに

 

                      (原歌)

              ↓

 

鈴なりのレモン輝く雨上がり小鳥唄えりおもいのままに

 

                      (添削後)

<添削のポイント>

素敵な歌だと思います。レモン、雨上がり、小鳥といった歌材が瑞々しくフレッシュな印象を与えます。下句の「小鳥にぎわうおもいのままに」の倒置法もいいです。ほとんど添削の必要はないのですが、一点、「にぎわう」が気になりました。辞書には「にぎわう」は自動詞、他動詞両方の用い方が記載されています。ここはもちろん自動詞として「にぎやかになる」と捉えられ、文法的に、また辞書的な意味でも問題はないのですが、語感として「にぎわう」は広い範囲で、大きく自然発生的に活気があるというようなイメージだと感じられます。そして一羽ずつの小鳥たちが「おもいのままに」さえずっている眼前の景との間に、ややそぐわない感じが生まれてしまいます。ですから諸々を考えあわせた上で、「小鳥唄えり」としてみました。

 


2015.1.21                                                       作者:小里


 

 百人の雅(みやび)な歌札囲いつつ童ら握る掌汗(たなごころあせ)


                                               (原歌)

                   ↓

 百人の雅(みやび)な歌札囲いつつ童ら握る掌(てのひら)の汗


 百葉の雅びな歌札囲いつつ童ら握る手のひらの汗


                        (添削後)

<添削のポイント>     

「百人の雅な歌札」とは百人一首のことでしょう。手に汗握りながら子供たちが夢中になっている様子が、とても技巧的に表現されています。作者の工夫がよく分かります。造語「掌汗」は頑張りましたね。このままでも良いとは思います。ただ、多少無理があるような気もします。「掌(てのひら)の汗」でも十分表現したいことは伝わると思います。今一点、「百人の雅な歌札」は百人一首のことだとすぐわかるので、ひとつの添削案として示しますと、「百枚」のものですので「百葉」と表現してみました。また原歌では「雅」ですが、「雅び」と仮名を送ることによって、ルビが不要になります。そこで考えたのが二案です。しかしながら、全体として造語を工夫なさる姿勢は大事ですし、作者のチャレンジにまずはエールを送りたいと思います。

 

2015.1.25                                               作者:文ちゃん


 

    孫瞭の中学入試合格に小躍り涙妻の瞳も

 

                   (原歌)

              ↓

 

孫「瞭」の中学入試合格に小躍りしたり妻も涙す

 

吾(あ)も妻も瞳うるませ小躍りす瞭十二歳合格の報

 

                 (添削後)

<添削のポイント>

お孫さんの中学入試合格に喜ばれるお姿が良く表れています。ただ、「孫瞭」では、お孫さんの名前だと初読で判る読者は少ないかもしれません。最初の添削案では、瞭に「」をつけてみました。また下句がやや盛り込み過ぎなので、「小躍りしたり妻も涙す」としてみました。

また、「孫」という名詞を出さず、「瞭」というお名前を生かすのに、おおきく動かしてみたのが二案です。

 

    先生の目から鱗の添削に短歌つくり苦しくも楽しき

 

                 (原歌)

            ↓

 

師の添削 目から鱗が落ちにけり短歌を詠むは苦しくも楽し

 

先生の納得のいく添削に短歌を詠むは苦しくも楽し

 

            (添削後)

<添削のポイント>

「目から鱗」というのはいわゆる慣用句です。短歌ではあまり使わない方がいいと思います。とくに略式では、歌の世界と通俗的な会話表現との境界がうすれるきらいがあります。会話的な慣用表現をいかに短歌形式に盛り込むか、そこに短歌を詠む妙味があります。

下句は句またがりで、八音、七音ととれなくもないですが、少し無理があるように思います。また結句の「楽しき」は、終止形「楽し」でよいでしょう。それらを考慮し、「目から鱗」を活かして考えたのが一案、原歌に即して考えたのが二案です。

 

    五家族の忘年会でさまざまな家のありよう見え隠れして

                                             (原歌のまま)

この歌は添削の必要はありません。とてもいい着想の歌だと思います。子であっても、それぞれに家族を持ち、家を構えるとさまざまなありようが見え隠れする・・・。良く分かります。短歌を作るときには「読者の共感を得る」という注意点があります。もちろん読者におもねったり媚びたり、ということではありません。詠んだ歌に、読者が「なるほど、そうだなあ」という共感を持つ。そんなことにも留意して短歌づくりの参考になさるとよいと思います。その点、この歌は十分読者の共感を得られると思います。

 


2015.1.14                                                                   作者:文ちゃん

 ①    寒い朝孫の野球応援に駆ける薩摩路水仙咲きて

 

 

                    (原歌)

                ↓

 

  寒い朝孫の野球の応援に駆ける薩摩路水仙咲きて

 

                    (添削後)

<添削のポイント>

とてもよい歌想だと思います。特に、下句がおおらかな薩摩の光景を捉えていて良いと思います。ただ二句、三句の「孫の野球応援に」は六音で字足らずなので、「孫の野球の」としてみました。また、三句は「駆ける」で切れるのか、下句へ続いて行くのか読者は迷うところだと思います。上句で切れるなら、「駆ける」のあと一字アキにするといいと思いましたが、「薩摩路を駆ける」と取ったほうがより歌が生きると解釈し、あえて添削案にはしませんでした。

 

    新年に8人の孫らそろい来て一人っ子の吾戦死の(亡き)父思ふ

 

                      (原歌)

                 ↓

 

  新年に8人の孫そろひ来て一人つ子の吾戦死の父思(も)ふ

 

                      (添削後)

<添削のポイント>

作者のお孫さんやお父様を想う気持ちが良く表れている歌だと思います。ただ、「8人の孫ら」は、8人と言ったところで複数とわかるので、あえて八音にしなくても、「8人の孫」で十分だと思います。また「戦死の」のあとの(亡き)は「戦死」にかかるルビだと思われますが、戦死と言った時点で亡くなられたことは分かるので、むしろ結句の「思ふ」に「(も)ふ」とルビを振り、ぎりぎり八音で収めるのがよろしいかと思います。また結句だけ旧仮名遣いになっているので、一首まるごと旧仮名遣いでまとめてみました。

 

    古希過ぎてマジック短歌にヨガ習い新しき年ときめく吾は

                    (原歌のまま)

 

これは添削の必要のない歌だと思います。結句の「ときめく吾は」の収め方も良いと思います。古希を過ぎて、マジックに短歌にヨガと、挑戦なさる作者のバイタリティは素晴らしいです。

 

 

2015.1.3                 作者:みっちゃん

   在りし日の祖母の面影想い出し幼き頃の我にかえれり

 

 

                   (原歌)

                ↓

  在りし日の祖母のおもかげ顕れて幼き頃の我にかえれり

 

                   (添削後)

 

<添削のポイント>

「面影」は「想い出す」よりは「顕れる」「立ち返る」のほうが、言葉どうしの座りがいいように思いますので、「顕れて」としてみました。また漢字の重なりを避けるために、「面影」を「おもかげ」と仮名表記にしました。

 

   脳トレの問題とけず何度も何度も四苦八苦して挫折するなり

 

 

                   (原歌)

 

                ↓

  脳トレの問題とけず幾たびも四苦八苦して挫折するなり

 

                   (添削後)

<添削のポイント>

三句目が「何度も何度も」、八音と大きく字余りになっていましたので、「幾たびも」と、すっきり五音でまとめました。

 

 

   夜明け前ふと目がさめて想い出す遠い昔の幼き日々を

 

 

                   (原歌)

 

                ↓

夜明け前ふと目が覚めて想い出づはるか昔の幼き日々を

                  (添削後)

 

<添削のポイント>

文語と口語が混ざっていますので、作者の格調高いイメージを生かして、「想い出す」を「想い出づ」、そして「遠き昔」としたいところですが、「幼き」の「き」とぶつかってしまうので、「はるか昔」としてみました。

 

この作者は一定の「格調」のようなものをお持ちです。語彙のことなど、まだまだ考えるべきところはありますが、とにかくまず歌数を積み重ねることが大事だと思います。それにつれて語彙も増えることでしょう。

 

 

2014.12.14                                                     作者:みっちゃん

    和希よりもらいし土産嬉しくて何度も何度も出したり入れたり

 

 

                     (原歌)

                  ↓

 和希よりもらいし土産うれしくて幾度も幾度も出しつしまいつ

 

                      (添削後)

<添削のポイント>

「和希」とはお孫さんのお名前でしょうか。お土産をもらった作者のうれしさが良く出ています。「土産」と「嬉」と漢字が重なりやや読みづらいので、「うれしくて」とひらがなにします。「何度も何度も」は散文調の言い回しですので、「幾度も幾度も」にしてみました。さらに、「出したり入れたり」は字余りで、やや俗っぽい言葉のように思われますので、「出しつしまいつ」と改めました。

 

     毎日の足の痛みにたえられず今日も一人でなげいてばかり

 

                     (原歌)

                ↓

 

 毎日の足の痛みにたえられず一人の今日を畏るるばかり

 

                      (添削後)

 

<添削のポイント>

詠嘆の一首です。ただ、原歌のままだと、自分の感情を散文的に述べるにとどまってしまいます。下句を少し工夫して、「なげく」とはやや意味が異なってしまいますが、「一人の今日を畏るるばかり」としてみました。

 

    一人居の寂しき夜がやって来る今日も一日何事もなし

 

                      (原歌)

 

一人居の寂しき夜が近づきぬ今日も一日何事もなし

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

「寂しき」は文語ですので、「やって来る」の口語が混在していけないということではないのですが、ややそぐわない気がしますし、歌には緩急もしくはメリハリが欲しいです。そこで「近づきぬ」としてみました。下句はこのままでよろしいでしょう。

 

 

 

 

 

平成27年の年が明け、<芽吹く言の葉>も活気づいてまいりました。今日は新メンバー「小里」さんの作品を紹介させていただきます。、

 

 

2015.1.5                                                     作者:小里

 

 ようようと初めて言の葉紡ぎたる吾子の筆先清水のごとし

 

 初めて紡いだ「言の葉」は、どのような内容だったのでしょうか。言葉を紡いだお子さんの姿、優しく見守るお母さんの姿、いずれもが、微笑ましく、かつ幅広く受けとめられます。「筆先」が「清水のごとし」という結句に、お母さんの歓びもみずみずしく表現されています。

 

 <芽吹く言の葉>では、添削希望の有無、またホームページ掲載の可否にかかわらず(いずれもご希望に応じます)、ひろく短歌の研鑽、発表の場を求める方々の作品を募集しております。年が明けてから、「非掲載・添削のみご希望」の方からも詠草をお寄せいただいております。「短歌添削のご案内」の項をご確認の上、お気軽に作品をお寄せ下さい。

 

 

2014.12.25                 作者:文ちゃん


 

    朝早く2歳の俊太ジイージジイジ一緒にあそぼとスマホの向こう

 

                       (原歌)

               ↓

朝早く2歳の俊太ジイジジイジー、一緒にあそぼとスマホの向こう

 

                       (添削後)

<添削のポイント>

まず、2歳のお孫さんとのやりとりが微笑ましく、楽しい歌だと思います。

ただ、お孫さんの口ぶりそのままなのかと推察して、本来ならこのまま使いたいところですが、「2歳の」→四音、「俊太」→三音、「ジイージ」→四音、「ジイジ」→三音となっており、四、三、四、三と、音韻が単調になってしまう点が少し気にかかります。そのため、

「ジイジジイジー、一緒にあそぼ」としてみました。

 

 

    寒い朝笑顔さざんか薄紅にメジロ舞いおり穏やかなりぬ

 

                        (原歌)

                ↓

薄紅に笑むさざんかにメジロ来て寒き朝(あした)も穏やかとなる

                      

 (添削後)

 

<添削のポイント>

 すこし大きく動かしてみました。「笑顔さざんか」は固有名詞とのことですが、「薄紅」という「色」にメジロが舞いおりて来るという表現と、形容動詞「穏やかなり」(状態を表す)に完了の助動詞「ぬ」がつくという点に、疑問があるためです。固有名詞を生かして原歌のままとする場合でも、「寒い」は「寒き」とするのがよいでしょう。

 

 

    古希過ぎてマジック習いし孫たちに初の公開ネタバレバレか

 

                        (原歌)

                ↓

古希過ぎてマジック習い孫たちに初の公開ネタバレバレか

(添削後)

 

<添削のポイント>

三句「習いし」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形ですから、連体形の係り受けからすると、習ったのが「孫」となってしまいます。また、二句を八音にすることを避け、「し」を取りました。

 

 

    孫たちとプールで泳ぎ帰り道アイスクリームと十六夜の月

                            (原歌のまま)

 

アイスクリームを頬張ってお孫さんたちとプールから帰るとき、十六夜の月がみている、

というのはとても抒情的ないい歌想だと思います。「十六夜の月」の体言止めも、よく効いています。

2014.12.3                 作者:文ちゃん


 

     北海道ニシンサケホッケホタテカニそのとき時の御殿がありぬ

 

                  (原歌)

             ↓

北海道サケホッケニシンホタテカニそのときどきの御殿がありぬ

 

                 (添削後)

<添削のポイント>

一首の歌の題材として、土地と時代をおおきくとらえており、すばらしい着想、歌材だと思います。歴史的にとらえて間違いがないのであればこのままで結構です。ただ少し音韻にかかわることに触れるよい機会なので、ここは小田原が担当します。

 

提示した添削案では次の二点を考えて言葉の入れ替えを試みました。

 

ア、促音「ッ」、撥音「ン」がともに「半拍」(音符の半分の長さであること。特に「ニシン」の「ン」について。

イ、「ほっ」「かい」「どう」が、やはり字余りながら「短い二拍」ずつであること。

 

具体的にまとめると、「ほっ、かい、どう」のあとに「ニシン、サケ、ホッケ」となるよりは、「サケ、ホッケ、ニシン」であるほうが、「短い二拍」を「サケ」の二拍で受け、しかも第二句の末尾は「ニシン」で終わるため、字余りがほとんど気にならずに済む、という利点があります。また「とき時」の表記は、気まぐれな意味の「時々」と読まれないようにという作者の配慮を感じましたが、すっぱり「ときどき」と、すべてかなにするのが、よろしいかと思います。

 

     オントネー緑青赤いろいろと風雲光神宿りしか

 

                     (原歌)

               ↓

    オンネトー緑青赤いろいろと風、雲、光、神宿れるか

 

                     (添削後)

<添削のポイント> 

まずオントネーはオンネトーの誤植と思われますので、改めました。「風雲光神」と漢字を連ねる手法は短歌に多くありますが、このままだと「ふううんこうじん」と読まれてしまいます。そこで、「風、雲、光、」と読点を入れると良いと思います。また「宿りし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形であり、風雲光に神が宿っているのは現在のことと思われますので、完了・存続の助動詞「り」の連体形「る」を用いてみました。

 

      北海道午後四時過ぎて暗闇を黙して走るツアーバスかな

 

                      (原歌)

                ↓

 

     北海道午後四時過ぎの暗闇を黙して走るツアーバスかな

 

                      (添削後)

<添削のポイント>

実はこの歌は添削はほとんど不要です。とてもいい歌だと思います。ツアー旅行の疲れ、はしゃいだ旅のあとで、北海道ですから午後四時を過ぎるともう暗くなったであろうなか、走っているバスの中が黙している、その感じがとても良く表れています。万全を期すとすると、「午後四時過ぎて」の「て」を、「の」に改めます。すると、助詞「て」の重なりも避けられます。

作者はこの三首とも定型にきっちり収め、雄大な大自然をよくとらえ、うたごころが溢れています。この調子でどんどんこの作者らしい歌を詠んでいってほしいと思います。 


 

編集作業上、原稿をお預かりしてから少し日が経ちましたが、新年のこの機会に、新メンバー「みっちゃん」の作品を紹介させていただきます。

 

 

2014.11,26                     作者:みっちゃん

 

① なつかしく父、母、祖母の面影を想い起す秋の夜長や

 

                     (原歌)

               ↓

なつかしく父、母、祖母の面影を想い出すなり秋の夜長や

 

                      (添削後)

 

<添削のポイント>

四句が六音で字足らずとなっているので、「想い起す」を「想い出す」とし、断定の助動詞「なり」で収めました。

 

②  故郷を遠く離れて幾年か懐かしきかな友の面影

 

                      (原歌のまま)

 

 ③  鉄研に入りし孫の笑みをみて自慢の孫とひとりほほ笑む

 

                       (原歌)

               ↓

鉄研に入りたる孫の笑みをみて自慢の孫とひとりほほ笑む

 

<添削のポイント>

鉄研とはいわゆる「鉄道研究会」のことでしょう。二句の「入りし(はいりし)」の「し」は過去の助動詞ですが、孫が鉄研に入っているのは現在の事と思われますので、「入りたる(いりたる)」と、存続の助動詞「たり」の連用形「たる」を用いました。

 

この作者の歌は、基本的に整っています。「面影」の多用とか、「孫」の重なりとか、考えるべき点はいくつかあるのですが、まずは、素直な感慨をストレートに歌にしている点を、大いに買うべきと捉えています。

 

 

 

2014.11.19                   作者:文ちゃん


 

  古希過ぎて孫らとプール遊園地アイスクリームあ幸せいろ

         

                         (原歌)

            ↓

 

古希過ぎて孫らとプール遊園地アイスクリーム 幸せのいろ

       

                         (添削後)

<添削のポイント>

基本的に定型にきっちり収まっていてよいのですが、「あ幸せいろ」では、「ああ」の誤植?と取られるきらいがあります。作者の発見した「幸せいろ」という言葉を少しこわしてしまいますが、結句を強調するために一字アケとし、「幸せのいろ」で収めます。

 

  120記念式典花道と同窓会の会長終えぬ

 

                            (原歌)

               ↓

  120年記念式典花道に同窓会長役目を終えぬ

 

                            (添削後)

<添削のポイント>

これも定型に収まっています。ただ、「120記念式典」では少し分かりづらいので、「120年」と補足。また「花道と」よりは「花道に」のほうが通りやすいと思います。さらに、「同窓会の会長終えぬ」で分からないこともないのですが、より分かりやすくするために、「同窓会長役目を終えぬ」と補足してみました。

 

  久しぶり少年院で会う君は涙うるませ保護司に語る

 

                           (原歌)

             ↓

 

久々に少年院で会う君は瞳うるませ保護司に語る

 

                           (添削後)

<添削のポイント>

三首とも定型に収まっていて、まずはよろしいと思います。この歌については、初句の「ひさしぶり」は二句以降につなげるのにやや唐突で無理がある感じがしますので、形容動詞「久々なり」の連用形「久々に」としてみました。さらに細かいことですが、涙は「溜める」のであって、うるませるのは「目」か「瞳」という点にも留意し、「瞳うるませ」としてみました。作者の感慨が表れていて、いいお歌だと思います。

 

 

2014.11.14            作者:文ちゃん


 

① 久住の山丘ススキ太陽に照らされ光蔭いろいろと

                                       (原歌)

            ↓

 

  久住なる山丘ススキ太陽に照りてあれこれめぐる光蔭

 

                         (添削後)

 

<添削のポイント>

まず定型に収めることを考えます。四句の最初を「照りて」と三音にし、さらに「光蔭」を結句に持っていき体言止めとしました。

 

 

   吾よりも若く逝かれし教え子の在りし日思い愛しく哀れ

                                    (原歌) 

          ↓

 

吾よりも若く逝きたる教え子を思えば愛(は)しき在りし日の顔

 

                       (添削後)

 

<添削のポイント>

「逝かれし」の「れ」は助動詞「る」の連用形ですが、尊敬・受け身の二通りに取れ、紛らわしいので、ここは完了の助動詞「たる」を用います。また「かなし」「哀れ」「さびし」など直接的に感情を述べるのを避け、「愛(は)しき在りし日の顔」と、ここでも体言止めで収めてみました。

 

  岡城上りて見ればそれはもう幻想的な墨絵のごとし

                                    (原歌)

                ↓

  

岡城に上りて見ればいやまさり幻のごとく墨絵あらわる

 

                       (添削後)

 

<添削のポイント>

まず初句の四音を五音にします。「幻想的な」の「的」と「墨絵のごとし」の「ごとし」はどちらも直喩なので、「幻のごとく墨絵あらわる」としてみました。さらに「それはもう」は散文的な言い回しなので、「いやまさり」と改めました。

 

2014.11.11              作者:文ちゃん



  

   わが庭で巣立ちし鳩の家族連れ今朝もクークー遊びに来たり

                       

                         (原歌のまま)

 

   古希過ぎて作歌するとは吾ながらおかしくもあり嬉しくもあり

 

                         (原歌のまま)

 

   作歌作歌とあれこれ思い浮かべど遅々と進まず哀れなるかな

 

                        (原歌)

 

             ↓

 

  さまざまに歌作らんと思いつつ遅々と進まず哀れなるかな

 

                        (添削後)

 

<添削のポイント>

 

③の歌について

 

 上句を定型(五・七・五)に収めることを眼目に、作者の思い、言葉をそこなわないように、添削したものです。