詩歌への誘(いざな)い

詩歌とは~「人はなぜ詩歌を詠むのか」②

 

 第2稿を書くのがすこしおそくなったことを、はじめにお詫び致します。

 

 前回、「詩歌」というものは、散文では書きにくい「作者の”生”の衝動」を、そのまま表出するところに、その特質があるのだと述べました。

 

 たとえば散文で、作者(筆者)の感じたことをそのまま書くことの最初の形式は、「日記」でしょう(日記が毎日つづられ、あるいは多少の間断を許しても、継続性、記録性を持つことと、そのために生まれる価値については、別に評価します)。

 

 しかし日記は、原則としては他者に見せない「個人の記録」として、個人の日々の思い(または行動など)をつづるものです。「他者に読ませること」は、本来想定されていないはずです。一方日記以外の散文の場合、やはり個人の記録として書きとめるものを別にすれば、そこでは他者に「読まれる」(「読ませる」)ことが前提であり、それが文学を志向するものであるならば、「個人の思いの生の表出」とは、いささか異なるものになると考えられます。

 

 ここに「詩歌」と「散文」の、書き手における大きな立ち位置の違いがあります。「詩歌」はほとんどの場合、何らかの形で発表する、すなわち他者に読んでもらうことを想定して書かれるものです。古来、そうした性質を帯びているからです(もちろん、はじめは一人で書きはじめる、読みはじめることに、何の問題もありません)。なおかつ、主たる内容は、「個人の思い」であることがふつうです。とりわけ短歌は、五句三十一音という適度な短さ(十七音の俳句と比べれば、長さ)のゆえに、作者の「思い」を、かなり直截的に盛り込むことができるのです。

 

 「直截的に」ということについては、中村草田男と石川啄木の有名な俳句、短歌を題材にして、お話ししたいと思います。

 

 万緑の中や吾子の歯生え初むる   中村草田男

 

 私たちをとりまく今日現在も、折りから「万緑」の時に近づいてゆこうとしています。そしてこの句は、万物の力がみなぎって木々の緑が蘭けてゆくころ、作者の幼い子の歯も生えはじめた、その感動を、「感動」という表現を用いずに、見事に言いつくしています。これほどに、まだ若い作者が自分と家族の生命のよろこびを詠み尽くした表現は、おそらくなかなか見出せないでしょう。この俳句の完成度は非常に高く、短歌と「比較」するために引用しているのではありません。

 

 ただ、俳句と短歌、それぞれを志す書き手には、おのずと志向するところ、また言葉の運び方や心の用い方に、差違があります。

 

 いのちなき砂のかなしさよ

 さらさらと

 握れば指のあひだより落つ   石川啄木

 

 俳句であるならば、啄木のこの歌は、「砂のかなしさ」の描写のために、全十七音が費やされるのでしょう。また「かなしさ」という言葉は、おそらく十七音の中では採用されないと思われます。つまり、「かなしさ」を、「さらさらと」「指のあひだより落」ちる「砂」に託すことができるところに、短歌と俳句の差違があるのです(どちらに優劣があるということではありません)。

 

 短歌が「直截的に思いを盛り込む」ことができるのは、この下句七・七の、十四音のおかげです。もちろん、だからと言ってただ言葉を並べるだけでは(最初は当然かまわないのですが)、読んでくれる読者に「何かを伝えられる」歌にはなりません。しかし、散文と異なり、自らの意の表出を前面に出しながら他者に読んでもらうこともでき、なおかつ自分自身の「思い」を強く盛り込むことのできる身近な詩形(短詩)として、短歌は千三百年以上にもわたる長い年月、この日本の国の人たちに受け入れられ、愛されて来たのです。「多くの思い」を作品中であらわしたい方には、短歌がおそらくもっともふさわしいのではないかということを、今回はお伝えしておきたいと思います。

 

※本年(平成27年)5月17日(日)に、当サイト運営者である小田原漂情、石井綾乃による、「桜草短歌会」第一回歌会を開催致します。詳細は当サイト「桜草短歌会のご案内」をご覧下さい。短歌の経験の有無、これまでの当サイト(『美し言の葉』、「芽吹く言の葉」)とのつながりにもまったくかかわりなく、短歌を志す方みなさまにご参加いただけます。

 

 

詩歌とは~「人はなぜ詩歌を詠むのか」①

 

 当サイトを訪問して下さる方々に、あえてご説明する必要はないと思いますが、「詩歌」は「しいか」と読み、文字通り「詩」や「歌」、国語的な分類をすればおもに近現代の「詩」、および古典から近現代に至る「短歌」「俳句」などを指すものと言っていいでしょう。ただし、萬葉集などの時代には、長歌、片歌、旋頭歌(せどうか)、仏足石歌などの形式もありますし、さらに広義には、歌舞音曲も、「詩歌」の範疇にあるものかとも思われます。

 

 さて、本欄「詩歌への誘い」におきましては、あつかう範囲を、詩・短歌・俳句、まれに長歌などとさせていただくつもりでおりますが、進発当初の課題として、「人はなぜ詩歌を詠むのか」という命題を、提起したいと思います。あわせて語の定義を述べておきますが、「短歌」「俳句」も、広義には「詩」の一部です(その中の「定型詩」の、それぞれ固有の形態)。ですから、ここで「詩」というのは、主として明治以降、欧米の詩人の詩作品を日本の文学者が翻訳・紹介したものを含め、明治以降に書かれた「自由詩」と、七五調・五七調で短歌・俳句とは異なる書き方をされた「定型詩」であるということに、決めさせていただきます。

 

 前置きが長くなりましたが、「人はなぜ詩歌を詠むのか」ということを、これから数回に分けて、述べさせていただきます。

 

 「詩歌」と対置される文学の代表的な形式は、「小説」です。小説は散文ですから、読者をある意味論理的に、かつ一定時間継続的に(いずれも詩歌と対比して)、その構成の中に引きこんで行くという特徴があります。作者の用意した仕掛けの中に、読者がとりこまれて行くという言い方も、できるかも知れません。

 

 それに対して、詩歌では、多くは作者がその”生”の感情や衝動を、そのまま表出し、読者にぶつけるという性質があるのです(いわゆる「現代詩」では、「そのまま表出」という言葉は直接あてはまりませんが、「表現」の本質としては、そういうことです)。

 

 もっとわかりやすく言うと、「詩歌」を書くことにより、散文では表現できない、曰く言い難い表現者の情念、パトスというものを、ストレートにぶつけることができるのだ、ということなのではないでしょうか。

 

 今後、この「美し言の葉」におきまして、このことをともに考え、「詩歌」の世界を多くの方と一緒に広げて行くことができるよう、祈るものです。

 

                                                  小田原漂情 

 

詩歌の基本①‐枕詞と序詞

 

 今年、平成26年2月24日実施の東京都立高校入学試験(学力検査/前期)の国語では、古典を扱う大問五で、「百人一首」に関する、歌人馬場あき子氏と水原紫苑氏の対談の文章が、主として引用されました。

 

 実は昨年も、「三大随筆」と呼ばれる鴨長明の『方丈記』について、長明の歌人としてのありように関する対談が題材でした。2年続けて、和歌(短歌)に関連する出題だったということです。新指導要領において、小3で俳句、小4で短歌を教え、日本の古い心を学ばせようという方向から考えれば、自然な流れなのかもしれません。

 

 私自身、「歌人」の一人でありますから、こうした状況下、特に多くの人が疑問に思われる、あるいはもっと端的に「わかりにくい」ことについてお話しするのも、私および当サイトの責務の一つであるかも知れないと思い、稿を起こした次第であります。

 

 「枕詞(まくらことば)」と「序詞(じょことば)」。古文を習う際、また短歌を書こうと志す方からも時おり質問される、短歌特有の決まりのひとつです。ここでは「よく知らない、よくわからない」方を対象としますので、端的にまとめます。

 

・枕詞‐ある言葉を導き出すために、「あらかじめ決まっている」、主に5音、まれに4音の言葉。

  

  例) ひさかたの→光 ちはやぶる→神 たらちねの→母  など

     4音の例は、さねさし→相模  ももきね→美濃 など、ふるい地名に関           して散見される

 

・序詞‐ある言葉を導き出すために、「その都度作者によって詠まれる」、主として   2句(5・7音)以上 の節。

 

  例)①浅茅生(あさぢふ)の小野のしのはら→しのぶれど 

    ②多摩川にさらす手作り→さらさらに  

 

   ①「しのぶ」を言うために、小野のしのはら までの序詞全体を言う

   ②「さらさらに」を言うために、手作りの布を川にさらさらと「さらす」こと

    を言う

 

 これが、「枕詞」と「序詞」の性質であり、違いです。ここにお示しした「骨格」さえわかっていれば、さしてむずかしいものではありません。

 

 もちろん、枕詞は「覚えること」、「序詞」は、「読みとること」が大事です。現在、実際に短歌の実作をする上で「序詞」の技法を駆使するということはほとんどありませんが、「枕詞」は実作の際にも役立ちますし、「枕詞」は古典・近代とも、「序詞」は古典の時代の短歌を読み解くのに、やはり知っておくべき技法ですから、本稿がそのお手伝いになるとすれば、幸いです。

 

     (初出:『国語力.com』~言問学舎・小田原漂情運営~のものに加筆修正)